立ちションできない男の子──男子トイレという恐怖空間
20070511_180952_P5110010 / くーさん
30歳になった。ずっと読みたかった雑誌をパートナーがプレゼントしてくれたので、今日はその感想がてらエントリーを綴りたい。目当ての記事は、男子トイレという空間のもつ政治性について論じたエッセイ、「メンズ・ルーム」(リー・エードルマン)である。
このエッセイの存在を知ったのは、以下のエントリーがきっかけだった。
空間の政治学は性的なものである──空間は単なる抽象的存在ではなく、政治的に無色透明なものではないのだ。
セクシュアリティと空間 - HODGE'S PARROT
空間の政治性。建築をめぐるこの大きなテーマじたい興味深いものであるのだが、とりわけぼくの目を引いたのが、男子トイレ──「それは小便器ばかりが並ぶ窓のない部屋である」──への言及があったことだった。なぜぼくは男子トイレを論じたそのテクストに大きな関心を寄せたのか? 感想に入るまえに若干の説明を加えておきたい。
トイレに行動を支配され続けた思春期
ぼくは立ちションが出来ない。
正確にいうと、まったく出来ないわけじゃないし、肉体上の物理的問題があるのでもない。自宅のトイレであればなんの問題もなく立った状態で用を足すことができる。ただ、公衆トイレなどで人と並ぶと用を足せない、尿意はあるのにおしっこが出なくなってしまう。並ばれなくても、洗面台周辺に人がいるのもダメ。個室での排泄行為にはさほど支障はないのだが。
記憶にある中でそうした「症状」が生じたのは、小学六年生の家族旅行のときが最初だったと思う。旅先で公衆便所の長蛇の列に加わった。やっと自分の番がやってきたとき、背後で待つオッサンたちのプレッシャーに妙に急かされた気分になり、用を足すことが出来なかった。しかも何故か、そのことを家族に言えなかった。「いま自分が置かれている状況全体が恥ずかしい」という感覚をもった。そのトイレ休憩のあと、本来なら当然解消されているはずの排泄欲求と戦いながら継続されるドライブ。次のトイレ休憩までが長く苦しかった。
その後、明確に「できない」と自覚したのは中学校の入学式当日だったと思う。式の直前に席を立ち向かったトイレ。隣には──真横に並んだわけでなく、四つある小便器の両端だったような気がするが──同じ小学校出身の友人が並んだ。不可解なプレッシャーを感じた。結局、尿意は解消できぬまま式へと向かった。
それ以降はもうトイレのことばかり考える毎日になる。どの時間帯、どこのトイレなら誰とも並ばずに用が足せるのか。学校に居るあいだ中、片時もそのことが頭から離れない。一日の行動は「いかに自然に誰もいないトイレに入るか」に支配される。個室に入るという選択肢は容易に選べなかった。小学校時代に比べれば多少抵抗は薄れていたとはいえ、なにしろトイレのたび毎回のことだ。個室に入るのが自然な女子たちのことを羨ましく思った。
水分摂取は極力控えた。ただどんなに努力しても、在校中二回の排泄機会は避けられない。また学校以外でも、誰かと(特に男友達と)出かけるのは気が重い。次第に友人たちと距離を取るようになっていった。泊まりのイベントやフェスに参加したい気持ちはあっても、もはやトイレで苦労する場所に行きたくないという気持ちの方が圧倒的に強くなっている。ぼくはこうして引きこもっていった。
*
こんな体験談を聞いても「まったく理解できない」と言う人の方が多いんじゃなかろうか。というかぼく自身、全然意味が分からなかった。小便器の前に立つたび、確実に襲ってくる不安のナゾ。なぜこんなことで自分は悩んでいるのか? いったいなにを意識しているのか? 一体なにが原因でどうすればこの不安のマグマを取り除けるのか? まったく解決の糸口が見つからない。誰に相談すればよいのかわからない。そもそも周囲にそんなことで悩んでいる「男」はまったく居ないように思えたし、そのことがさらに自分を追いつめた*1。
ただ大学生、社会人になって、「症状」はいくらかマシになった。思春期のピークを抜けたという要素もあるかもしれないが、ひとりで居ることへの心理的抵抗感が薄らいだというのもひとつ大きな要因と思う。上述のような心理状況だったから、トイレに気を使う心配が増えぬよう、大学では同じ学科内の友人は極力作らずいつもひとりで居た(反面、つねに孤独感と戦うはめになった)。また大学ともなると、トイレで居合わせるのもお互い知らない者同士(匿名の存在)ということが増える。個室に入る抵抗感もずいぶん和らいだ。
個室での排泄はたいてい大丈夫なことや、大規模トイレの離れた場所に人が居る状況はクリアできたりすることから、次のようなものがキーワードだろうなという当たりがこの頃からつき始めていた。
- 他人の気配
- 排泄の音
- 視線
- 排泄に要する時間への焦り
- 匿名性
- 「自然なふるまい」への憧れ、強迫感
男子トイレに満ちた政治的メッセージ
理解はできないながらも、ぼくが男子トイレにたいして並々ならぬ思い(というか因縁?)があることはそれなりに共有していただけた、と仮定して話を進めよう。上記に挙げた観点も未だ十分には整理しきれていないけれども、それを補強する意味で、「メンズ・ルーム」で取り上げられた論点を整理しておきたい。今後この問題を考えるにあたって、きっと有益と思われるので。
(……)とはいえ男子トイレは無論、(……)まったくの機能性の論理の、その過剰において機能しているのである。男子トイレとは、それゆえ身体上のやむにやまれぬ事柄に関連する衛生的配慮への技術的な返答なのだと明らかに考えられるだろうが、しかし、それは、それ自体でひとつの社会的な技術を構成しているのであり、そのため、男子トイレは、男性の主体と彼の身体との間に、ある関係性を要請することになるのである。簡潔に言えば、男子トイレの設計には、男性についての設計が目に見えて含まれている。すなわち、それは、男性を設計しようと望んでいるのだ。
当然のことながら、男子トイレは、その利用者を男性器の所有者であると前提して設計された建築物だ。小便器の前に立つとき、利用者自身が「男」であることを示すまさにそのものを露出することを迫られている。利用者の身体構造に機能最適化させた場であることのちょうど裏返しに、自分が「男」であることの自覚をその都度促されるような装置、小便器とはそのような施設に他ならない。
エードルマンはまた、男子トイレがプライバシー(私的な領域)を提供する目的でその外部から分離された空間であると同時に、その内部に、「公の領域と私的な領域という区分が男子トイレの中に再び設けられて(p.131)」いることを指摘する。トイレの外部における私的な領域とは、むろん性器(とその表出可能性)を指示している。ところが、男子トイレの内部では事情が一転する。公の領域とは小便器のことであり、私的な領域とは個室のことである。つまり男子トイレの内部では、性器の露出をめぐって外界の秩序との逆転が生じているのだ。「すなわち、男子トイレでは尻を見せるな、そしてムスコ(ディック)は隠すな……。(p.131)」
「公の領域」において性器の露出を要請される空間。その奇妙な装置を前にして、利用者たちは不安を生じずにはいられない、とエードルマンは語る。彼によれば、その要因となるのが隣人の「眼差し」である。
ヤハウエの顔を見ることの禁止は、彼の名を語ることの禁止とひとつになっているけれども、それと同様、ここでは、法は、男性の眼差しがその隣人のムスコのもとに留まることを禁じているのであって、またそれは、あらゆる男性が知っていなければいけないが、禁止によって誰も決して口に出してはいけない事柄にもなっているのだけれども、かく自らがあることに、この法は黙して耐えているのである。
同 p.136
ではなぜ「隣人のムスコ」のもとに視線を留めてはならないのか? それは同性愛的な欲望を喚起させるからだ。そうした視線を向けられた男性(=性的主体)は、女性化される恐怖に遭遇することになる*2。
貫かれること、モノにされること、性的客体となることを、べつの言い方で「女性化される」とも言う。男性がもっとも怖れたことは、「女性化されること」、つまり性的主体の位置から転落することであった。
女/男が抱える「生きづらさ」の正体@『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』 - ねぼけログ
冷静に考えてみると、もしも自分の表出した性器を見られたくないのであれば、個室というよりプライベートな領域に入ってしまうのが最も確実な方法のはずだ。ところが男子トイレという空間において、そのような論理は働かない。問題の所在は自分の性器にまなざしを向ける相手の側にある、とみなすこと。互いに儀礼的無関心をつらぬくこと。──それが利用者たちの間で、暗黙のうちに共有されたルールである*3。
比較的新しめのトイレの場合には、各小便器のあいだには仕切りがあって、性器に向けられる隣人からの視線を受けづらくするような配慮がされている(公園などにある古いトイレに至っては仕切り自体が存在しないことも多い)。たしかにその目隠しによって、互いの持つ、見られる/見てしまうという心理的負担をいくらか軽減してくれてはいるものの、やはり完全に隠されているとは言い難い。「別に見たくもないし、見ようと思わなければ見えないぞ」と反論を受けるかもしれない。しかし、ここで重要なのは、隣人の性器がじっさいに視界の中に入るか否かというよりも、エードルマンが指摘するように、無意識的かつ意識的に「見てはならない」と互いに自らを律しているという点のように思われる。(「わざわざ個室に入ることがたんに面倒くさいのだ」という反論も想定されるが、その点については後述する。)
とはいえ、小便器は、盲目性を強要することではなくて、視野そのものの中に盲目性を誘発することを目指している。
同 p.140
(……)男として通用するようになりたいと思う者はすべて、言葉ではなく行ないで、おのれの信仰を示さなければいけないのだ。すなわち、小便器のもとでは、見るべきものは何もない。そして、それを利用する者は、隠すべきものを何ももたない……。
同 p.141
かくして、男子トイレ内の小便器周辺は、「男」であるという自らの属性を証明(もっといえば誇示)することを要請されながら、同時に、他者の視線による女性化への恐怖(=性的主体のアイデンティティ不安)を誘発するアンビバレントな領域である、ということができる。言い換えると、小便器の利用者たちは次のような規範を互いに受け入れ、実演してしまうことになるのである。
男子トイレの論理は、警戒心に満ちた無頓着さなるものを、規範として制定=実演することを強制しており、それこそは、視覚的な関係に対して男子トイレが及ぼす規律上(ディシピリナリー)の圧力に、対応したものとなっているのである。
同 p.132
「警戒心に満ちた無頓着さ」、これこそがぼくを抑圧してきた象徴的な光景にほかならない! こうした振る舞いの反復、再生産の輪へと自分が加わることにはきわめて大きな抵抗感を持ってきた。けれども同時に、こうした振る舞いにやはり倣うべきだという気分もまたどうしても捨てられなかったからだ。それが何故なのかはずっと分からなかった。しかしいま、そうした表象の背後に潜む構造のいくらかは見えてきているのではないか。
*
ところで、女性化の恐怖という観点から考えてみると、個室の使用には、用を足すというたんに機能的な意味合いとは別に、むしろ、性器の表出行為にたいする過剰な防衛の態度──「公の領域」における性器表出の忌避──を読み取ることが可能かもしれない。小中学時代には、学校の男子トイレで個室に入ることは嘲笑の対象となったものだけれど、あれはたんにウンコをしているから馬鹿にし、またそれを恐れるのではないのかもしれない。言うまでもなく、子どもたち自身、誰もがウンコをすることくらい理解している。にもかかわらず、こうした理不尽な冷やかしが行われてきたのは、「男」を示すべき領域からの逃走を試みる者への軽蔑と不安の心理が背景にあるのではないか*4。そのように考えると、「わざわざ個室に入ることがたんに面倒くさい」という先述の主張は、そこで生じる不安そのものを隠蔽するような効果としても働いているのではないか、という気もしてくる。
以上見てきたように、自らが「男」であることの自覚をその都度促し、「男であれ」と(単一の)振る舞いを自己の内外から要請する、そのような空間が男子トイレである。小便器の前では、まさにこの瞬間にも、「男」の沽券をめぐる絶え間ないチキンレースが執り行われているのだ。
むろん、「だからどうした」という人が圧倒的多数派だろう。とはいえ、そのきわめて強い政治性は認識しておいても損はないように思う。とりわけ、ぼくと同じような抑圧を感じている方にとっては克服のヒントになるかもしれない。引き続き、公衆トイレ問題については考えてまいりたい所存。
追記
ブコメで何名かの方が言及されてたので、簡単に調べてみました。続編というか補足的記事として。
パーソナルスペースについて──混み合い、匿名性、身体境界
*1:当時(90年代)はまだネットで検索できるような環境は身近にない。いまの中高生と同じ環境があったなら、もしかしたら随分状況はちがったかもしれないとも思う。
*2:エードルマンは女性化に加えて、「幼児化」という要因も挙げている。ただその論点について、ぼくはいまいち実感に乏しいというか、消化し切れていない。今後の課題。
*3:なお、ぼくは自身の性器そのものにたいしてコンプレックスを持っているわけではなく、そのことが抑圧の直接の原因とは捉えていない。もちろんこの主張は、性器にたいして自信を抱いているということを意味しない。
*4:とはいえ、女子トイレにおいても「大でしょ!?」の冷やかしを避けるために、個室の滞在時間に神経を使うという話は小中時代には耳にしたし、ウンコにたいする忌避感も当然軽視はできない。
AKB48峯岸みなみ丸刈り問題への言及まとめ。タマフル、ニコ生PLANETS他
ここ数日話題になってるタイトルの件について、自分の関心のある範囲でまとめてみました。なお僕自身の立場ですが、非AKBファンで、アイドル文化に関しては、労働問題や倫理の観点に立った関心が比較的大きい。というかんじです。
タマフル評
アイドル文化に親しみながらも、自らの距離感を冷静に捉える(ように見える)タマフルメンバー評。僕にとっては素直に受け入れられる「良識派」の意見。
- 宇多丸
- コンバットREC
- 世間一般にある嫌悪感と、ここまで残酷ショーを支持してきた自分たちの嫌悪感とではちょっと質の違うものだと思う。(AKBの)事務所と俺らは共犯だ。
- 端的に晒し者。事務所はなぜこの動画を公開してしまったのか?
- アイドルに負荷を掛け、それをショーとして魅せてきたわけだが、どこまでの負荷がセーフで、どこからがアウトなのかを送り手が分からなくなっている。「ただ残酷なだけでなにも生まない」というレベルのものまで出してきてしまった。恋愛禁止を主張する人たちもこれは望んでいない、と思いたい。
- 宇多丸
- これを楽しむという選択肢も(俺自身は嫌だけど)あり得る。だって俺たちがこれまで言ってきたことの延長にあるものだし。でも「自分の意志だから仕方がない」と言ってしまうなら、岡田有希子の「選択」はどうなるのか。
- 今回の事件は明確に「異常なこと」。どうしてここまで追い詰めてしまったのかを考える必要がある。「アイドルだから恋愛禁止」という常識をそもそも問わなければいけないんじゃないか。
- コンバットREC
- 岡田有希子の時代とちがって今はネットもあり、「スキャンダル」を隠し通すのは極めて難しい。特に成人前の未成熟な女の子たちなら尚更だ。
- 擬似恋愛を「マジ」と受け取ってしまう層がじつはかなりいるのではないか。応援する側もまた未成熟。
- 宇多丸
- 秋元さんは「恋愛禁止と言った覚えはない」という。「ただ、そんな暇はないはずだ」と…。
- 一般的にいえば「恋愛は芸の肥やし」とも解釈できるわけで、恋愛禁止の根拠はそれほど明確ではないはず。
- ファンが夢見るのはいいことだが、問題が発覚したときには生身の女の子であるという現実を見るほかない。
- ルールの改正にまで踏み込む段階ではないか
- コンバットREC
- 矢口真理(モー娘。)の恋愛発覚時は即日脱退発表だった。
- サンズエンターテイメント(元イエローキャブ)の野田社長は「アイドルのSEXは止められない」と本音を漏らす。その上で「バレないようにやれ。ただバレたときは俺の仕事」と言うが、その方法論はもう限界だろう。(後述の補足記事も参照)。
- ただAKB48の場合、運営と事務所が分かれているという問題がある。
- (個人の選択による「恋愛しません」も含めた)恋愛解禁もありじゃないか。現に山口百恵×三浦友和カップルは周知の関係にあったが、問題なかった。人気投票システムをもつAKBなら出来る。仮に実現させるのであれば、過去に恋愛問題で辞めたメンバーもすべて戻す、そこまでやるべき
- 宇多丸
- かつて木村拓哉は、一般人の彼女がいることを公言しながら人気ナンバーワンだった。ところが男性アイドルのジャニーズでさえ、その後に続く流れを作ることができなかった。その歴史を変えることがもっとも革命的なのでは。
- このままいけば反省合戦、よりエクストリームな反省パフォーマンスを求める流れに。行き着く先はひとつ(自殺)しかない。それだけは絶対に避けなければならない。
- コンバットREC
- AKBは実験の場に出来る。人気が落ちても責任は取れないけど(笑)
- とにかく峯岸を追い詰めた責任は俺たちにはある。そもそも総選挙の負荷がエンターテイメントの枠に収まっているのかという問題がやっぱりある。映画『DOCUMENTARY of AKB48』で前田敦子が追い詰められたシーンもまた、いま改めて考えるとエンターテイメントとして捉えてよいのか疑問。(参考)
- アイドルに負荷かけないようにしたらどうなるか、の実験をしてるのがさくら学院。
- 宇多丸
- アイドルに限らず人気を競う者は、原理的に負荷が掛かることは避けられない。「芸能共産主義」はあり得ないのだし、「ある程度」の負荷は認めざるを得ない。その線引きはここでは語り切れないけれど…。
なお、コンバットRECさんによる野田社長についての言及は、以下の補足も参照のこと。豪streamも聞きたかったのだけど、残念ながらアーカイブされてないみたい。*1
吉田豪 コンバットRECが語る 野田社長がアイドルを守れた時代
(吉田豪)野田社長が文春相手に交渉出来るかって言ったら、無理だよね。
(コンバットREC)無理無理。だから野田社長が言っていたやり方が、もう時代にそぐわないのよ。昨日、(ウィークエンド・シャッフルの放送を聞いて)「野田社長の(やり方)が正解!」って言っている人がいて、俺の意図と反した広まり方をして、困ってるんだよ。
ニコ生PLANETS評
一方、同じくAKBファンでもより熱狂的な立場を表明しているのがPLANETSの面々。
ニコ生PLANETSライジング「AKB48白熱論争2」宇野常寛×小林よしのり×中森明夫×濱野智史
ニコ生PLANETS 『AKB48白熱論争2』実況まとめ #nicoron - Togetter
生放送を一度見たきり(タイムシフト予約忘れた)で、実況ツイートも断片的にしか拾えなかったので、記憶違いもあるかもしれないけれど、おおよその発言要旨は以下のとおりだったはず。
- 小林よしのり
- 「峯岸パンクやなあ。見直した!」が率直な印象。女性で坊主といえば、わしらの世代は瀬戸内寂聴。俗世間を捨てます、という覚悟を見せられた。だから、尼さんはカルトなのか? 当然ちがうだろ? という話。
- 今回の行為は峯岸本人の判断。システム云々いう意見があるが、どこまでが環境由来で、どこからが本人の意志かなんて判別できない。「人権」を叫ぶ人たちは彼女を被害者と見るだけで、本人の主体性を一切認めていない。そっちの方が問題ではないか。
- (宇野氏のルール明確化提案を受けて、)曖昧な部分を残すことで成り立つ魅力というものがある。プロレスはルールを厳格化→総合格闘技化したことでつまらなくなった。AKBはいまが最高に面白い。つまらなくさせるような施策導入には反対。
- 峯岸やAKBメンバーの自殺(最悪の事態)が懸念されているようだが、そんなことが起こるとは全く考えていない(あり得ない)。どんな組織でも自殺者が出るときは出る。
- 中森明夫
- 正直、峯岸に関してはこれまで注目して見てこなかった。ただよくよく考えると、AKBの中でもっとも長く人生を捧げてきたのがじつは峯岸。その彼女による今回の決断の意味は重い。そのことをわれわれは受け止めなければならない。
- アイドルの悲劇といえば岡田有希子の自殺。僕もファンとして/アイドル評論家として、加害者側(注:という表現を使っていたかは不明)として関わってしまった自覚がある。毎年命日には彼女の墓前で手を合わせている。それで彼女に報いることができているとは思っていないけれど。
- 岡田有希子の事件を思えば、今回の「事件」なんて比較することすら馬鹿馬鹿しい。そもそもこれは、あくまでもアイドルとファンの間の問題であって、外野が騒いでいるに過ぎない。
- アイドル文化とは芸能である。芸能とはよくもわるくもこういうものだ。
- (約7割が今回の峯岸の判断を「支持しない」という視聴者アンケートを受けて、)ネット世論を相手にアンケートすれば当然こうなる。テレビ中心の層が相手ならまた違った結果になるだろう。これが世間の声だと思っていると間違いが起こる。
- 宇野常寛
- よしりんや中森さんの言いたいことはよく分かる。ただ、AKBの外部(社会)をまったく無視していくことは不可能だと思う。AKBを存続させるためにも、世間と共存するための対策は必要。
- 当然のことながら「サリンは撒いていない」が、AKBに対して「カルト(=オウム)」的な視線が向けられる要素がないわけではない。そのことは自覚が必要。「異形のもの」に対する恐怖心を取り払う努力をしなければ、AKBはやがて社会から排除されてしまうのではと懸念している。
- AKBの魅力はルールの明確化(総選挙、じゃんけん等)にある。他方、不祥事発覚に際しての対応については依然としてブラックボックスになっている。じっさいに今回、みぃちゃん(注:峯岸を終始この愛称で呼んでいた)の処罰が他のメンバーと比べて軽いのではないかと噂されていた。不祥事が起きた際のペナルティもまた明文化すべきではないか。
- 恋愛禁止の緩和も検討すべきかもしれない。
- 一口に「AKBファン」や「運営」といっても、まさにこの場で対立が起こっているように、じっさいにはまったく一枚岩じゃない。
- 小林・中森両氏に対して(やや弱腰な)反論をしながらも、最終的には「僕らAKBファンはこんなことで絶対に負けませんから!」と団結宣言。
- 濱野智史
- AKBのことを嫌いな人たちが「カルト」という言葉を使っているわけだけど、それがAKBのメンバーを傷つけている。
- 上記発言に対しては、「あなたの『前田敦子はキリストを超えた』という「宗教」イメージの影響も大きいんじゃないの?」と中森氏につっこまれる場面も。
- 小林・中森両氏に同意の相槌を打ちながらも、終始口数は少ない。
タマフル評に共感する僕は、ここでのやりとりにまったく満足できなかったのだけど、ちょうど同じ番組を見ていたコンバットRECさんのつぶやきがすべてを言い表してるように思えました。
「なんでもかんでもあずまんかよ!(と東氏本人も思っていそう)」といった気分はあるものの、たしかに他に適任者がいないようにも思えるのですよね…。また、中森氏の「毎年命日には彼女の墓前で手を合わせている。それで彼女に報いることができているとは思っていないけれど」という発言が出た場面では、思わず「うげっ!」と気分が悪くなりました。。
宇野氏は著書のなかで、美少女(ポルノ)ゲームを肯定的に論じる東氏にたいして、ヒロインの少女に対する自身(主人公=プレイヤー)の行為を表面的には恥じ、反省しながら、しかしそのレイプ・ファンタジーそのものは決して放棄しようとはしない──そんなある種の居直りにも似た態度を強く批判し、「マチズモを強化温存する『安全に痛い自己反省パフォーマンス』にすぎない」と断じています*2。僕には、中森氏の「懺悔」がそれにしか見えません。おそらく、宇野氏には当然そのように映っていたはずです。でもあの場では「仲間」への遠慮があった。憶測かもしれないけど、僕にはそれがとてももどかしかったです。
また、濱野氏は「アイドルとファンの間の問題なのに外野が…」という論調に(どこか控えめに)賛同していました。その感覚自体は分からんでもないという気もします。でもさ。「AKBのシステムは画期的だから政治に活かせるんじゃね!」といった趣旨で本まで書いて/書こうとしているわけで、こういうときだけ社会から切断するという態度はズルいのではないでしょうか。
追記1(2013.02.09)
えいじさんより、小林よしのり氏擁護のコメントをいただきましたので、若干の補足をしておきたいと思います。
まず、ニコ生視聴中に僕がツイートした「いつか自殺者が出てもなお賞賛する流れはイヤだ」という発言はあくまでも僕の感想であり、出演者による発言・主張を実況したものではありません。その上で、なぜ僕がそのような感想を持ったかについて説明します。
えいじさんの仰るように、たしかに小林・中森両氏は、過度な負荷によるAKBメンバーの自殺可能性を否定しています。しかしその認識こそが問題ではないかと僕は考えています。なぜなら、「最悪の事態(=自殺、またはそれに類する行為)はありえない」とする立場を取り、しかしながら、万一その「最悪の事態」が実現してしまった場合に起こることは、
- 自殺者が出た後になって、ことの重大さに「初めて」気付く──岡田有希子の自殺を目の当たりにしていたにも関わらず。。
- 自殺者の志の純粋さを賞賛し、その行為を(程度の大小はあれど)肯定する
のいずれか(あるいはその両方)しかありません。僕が番組中にツイートしたのは後者の可能性にかんしてですが、もちろん前者の可能性もありえます。しかし前者が後者よりマシな態度であるか云々は些細な問題にすぎず、自殺者が出てしまうような条件そのものを問いたいと僕は思っています。小林氏は番組中「そんなことはありえない」と断言していましたが、その認識は楽観的すぎるように思うのです。
両氏に限らず、現時点で「自殺者が出てもなお賞賛する」などと表明する人は、おそらく、いないでしょう。むしろ「ファンがそんなこと望むはずがない」とすら言うのではないか…。他方で、「本気の恋愛なら、AKB48を卒業して」に象徴される「嫌なら辞めればいい」論法や、「つまらなくさせるような施策導入には反対」から読み取れる、アイドル文化の純度を優先し、環境の改善をなおざりにする態度は、アイドルとして活動する人たちを──小林氏の意図に反して──追い詰める状況を作りだし、固定化してしまう典型的な姿のように思えます。より充実したケアを受けられる環境でアイドルとして関わることができる道、というものを模索できないものかなと。言うまでもなく、アイドルもまた生身の人間であり、どう解釈しようとも労働者としての側面は捨てられないのですから。(もしかしたら、小林氏はそもそもその論点を否定する立場かもしれませんが)
小林氏は「人権」派を揶揄して、「アイドル本人の主体性を一切認めない」連中だと批判しています。しかし小林氏自身が認めるように、「どこまでが環境由来で、どこからが本人の意志かなんて判別できない」わけですから(※この点に関して指摘あり。追記2を参照)、構造=システムの問題もやはり一方には存在するはずです。個人の主体性や実存のロマンに過度の比重を置く小林氏の立場もまた、バランスを欠いていると言わざるを得ないのではないでしょうか?
追記2(2013.02.11)
上記のうち最後の段落について、「“どこまでが環境由来で、どこからが本人の意志かなんて判別できない”という趣旨の発言は、小林氏ではなく宇野氏のものではないか?」という指摘をえいじさんよりいただきました。
記載いただいた文字起こし(要約)を見る限り、たしかに宇野氏の発言であるように思われます(僕の記憶違いだったようで失礼しました)。ただ、小林氏もまた宇野氏のこの論点──パーソナリティとシステムというふたつの論点が存在すること──は承認した上で議論を続けているのであり、追記1での主張は大筋ではなお維持できるものと考えていますが、現在のところ原典(番組動画)を確認できる状況にないため、該当箇所については一旦保留とさせていただきます。申し訳ありません。
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「危険だからやめて」も必要。少なくとも体制は改善できる
「本人がやりたがっている」でストップを掛けないのはあまりにも無責任
*1:参考記事に実況Togetterらしきものだけ載せておきました。
*2:宇野常寛『ゼロ年代の想像力』p.203
猪瀬副知事の「性的少数者の人権を認めます。」発言について
都知事選を巡って、猪瀬氏のこの発言が話題をあつめています。そして猪瀬擁護の立場をとる東浩紀氏の発言にも。
僕は両氏の仕事には大きな関心を持っていて、おふたりが出演されたニコ生番組はほとんどチェックしてますし、このブログでも何度か取り上げてきました。
東氏が語るように、石原前都知事にたいする評価と猪瀬氏への評価は(まったくの無関係とはもちろん言えないけれど)基本的に別だと捉えていますし、システム・インフラの構築に力点を置く氏のスタンスを僕は信頼しています。もし猪瀬氏が都知事選に立候補したとすれば、おそらく彼に投票するでしょう。でもそうであるからこそ、今回おふたりの発言は看過できません。
人権意識の啓蒙
人権は万人が生まれながらに持っている権利にも関わらず、この社会ではそうした意識があまりにも希薄です。猪瀬氏ほどの人物が人権の基本的な認識が欠けているとは到底思えませんが、少なくとも先の発言だけを見ればそのような印象を受けることは否めないし、間違った解釈を広めることにもなりかねません。これまで政治家の「言葉の軽さ」を批判し、『言葉の力』の著者である猪瀬氏の言葉ですから、「言葉のあや」で済ませてほしくありません。
代表的な批判である、上川あや議員や東小雪さんの発言は別段「左翼」的でもなければ、「いちゃもん」とはとても言えないと思います。むしろ全うな指摘でしょう。なにより彼女たちは性的少数者当事者でもあるわけです。しかし今回、東氏はこうした発言をもひっくるめて「いちゃもん」と切り捨ててしまっている。たしかに中には「いちゃもん」としか言えないような猪瀬バッシングもありますが、さすがにやや左翼アレルギー的な反応ではないでしょうか。
猪瀬、東両氏がマイノリティ問題に無関心かといえば、そうではないと僕は思っています。比較するのもアホらしいほどに杜撰な認識の政治家・言論人はたくさんいるのも事実だし(それこそ前都知事のような……。)。しかし、「マシ」だからと「些細な点」は看過して共闘、ということにはなりません。猪瀬氏を応援し、政策実現を支援しつつも、同時に問題点は批判していく。その両立は十分可能でしょう。平等という「理念」/政策の実現という「現実解」、このふたつの柱の両立こそがまさに東氏が目指す──そして僕が共感する──モチーフなのではないでしょうか?
社会運動の多様性を
他方、マイノリティ当事者の中にもこうしたスタンスを選ぶ方はいます。それ自体はたいへん重要なことです。ただ、このようにマジョリティに譲歩する立場は好意的に受け入れられやすい一方で、問題が矮小化・無効化されやすいという側面を持っています。問題の存在をまず明らかにすべく主張し批判する嫌われ役の存在を前提にしてこそ、彼らの存在意義が出てくるわけです。
にも関わらず、マジョリティ側に寄り添うべきとするマイノリティ集団が、「文句ばかりいう」マイノリティ集団を攻撃する(そしてマジョリティがそれに便乗する)という構図の回避しづらさも、社会運動の難しさですよね。しかしそれはどちらが欠けてもいけない。「マイノリティ」といえどそれは便宜上団結した集団であって、その内情は(マジョリティ同様に)多様です。そしてひとつの立場がそのマイノリティたちの抱える問題すべてを汲み上げることができない以上、さまざまな立場から発言・行動することが重要になってくる。そのことが広く理解されてほしいと思っています。
というわけでこれ読みたい。
フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動
追記
猪瀬副知事「性的少数者の人権を認めます。」に対する北田暁大氏のコメント
「東氏は“人権概念は脱構築可能”との意図を持っているのではないか」という解釈は興味深かかったです。その上で、猪瀬・東両氏に対する北田氏の批判に全面的に同意します。
血液型が切り取るセカイ
先日飲み会の場で「血液型なに?」というよくある話題になった。あらためて考えるとあれは興味深い話だなあと感じた次第。いわく「A型は枠をきっちり設定したがるタイプが多く、B型はその枠を無視する、O型は(以下略)」と。ところで話を切り出したその方はB型だったのよねー。このテーマを足場にした会話こそ「枠」そのものじゃないのかよと!w
で、血液型性格診断の科学的信憑性とかはまあこの際どうでもよいのです。気になっているのは、こうしてなんらかの類型が提示されたとき、僕たちはその足場をけっこう安易に信用してしまうこと(たとえそれが安っぽいものだとしても)について。そしてその足場がじつは結構もろいものかもしれないと疑う必要性について。
まだその思想には軽く触れた程度だけど、ドゥルーズの「生成変化」という概念はそうした問題への応答なのだろうなと思っている。なにがしかのあるべき足場・枠組みがあって、それを基準にしたうえで差異を見る(ex.「A型の割に珍しいね」)のではなく、そのような足場などもともとないのだ、変化する仕方そのものもつねに変化しつづけるのだ、と。ドゥルーズは「哲学は概念の創造だ」と主張したことで有名だけど、同時に、日常生活における「概念」の使用法について批判的に述べている。すなわち日常における概念とは、僕たちがものを考えなくて済むためのものでしかないのだと。複雑さを縮減するために僕たちは概念を用いる。それゆえに概念とはつねに恣意的・偶然的なものなのであって、それは自覚しておかねばならない。ときには用いようとする概念そのもの、あるいは概念が形成されるプロセスそのものを疑うことをしなければ、思考は行き詰まり、ひいては豊かな感受性の可能性を失うことに繋がるほかない。
*
血液型はともかく、自分の関心に引き付けて考えれば決して他人事ではない問題であることに気づく。僕は競馬をやるから、血統という切り口に関心がある(奇しくも同じ「血」だ…。)。個別のレースには性質のようなものがあって、平たくいえば、スタミナタイプ向きのレースか/スピードタイプ向きのレースか、あるいは休養明け初戦から走れるタイプ/走れないタイプかというようなもののこと。それを血統にもとづいて馬とレースの相性を判断するんだけど、じつはこの類型・分類が面白いくらい傾向判断に使える。ただ当然だけど、血統の傾向からは外れる馬というのが時々出てくるのね。そのとき陥りがちな罠は、「この血統構成なのに、傾向に従っていない。おかしい!」と考えてしまう場合があること。個別の馬の得手不得手を判断するツールとして採用したはずの血統別類型が、いつのまにかその型の方を「正」と捉えてしまっているというわけ。
冷静に考えればこんな滑稽な話はないよね。ところがこれは日常的にほんとうによくやってしまう! チャートを勉強すればするほど相場で上手くいかない、という問題にも同じような理由があるのだと思う。その点、血液型性格判断の場合、明らかな失敗を自覚する瞬間がなかなかないとは言えるかもしれない*1。
僕たちは世界の全貌を把握したいという欲望を抱えている。それゆえ世界のあり方を鮮やかに説明する理論・概念を提示されたとき、たちまち魅せられてしまう。ある体系を発見したとき、その枠組みでさまざまなものを説明できる快楽に知らず知らずはまってしまう、そのような危険性はつねに潜んでいるように思うのだ。でもそこで提示されるのは混沌とした世界の複雑さを捨象し、恣意的に構成された部分的な「セカイ」にすぎない。どんなにその「セカイ」が強固で、包括的で、確実なものに見えても、ときどきは「外側」に思いを馳せる必要があるのではないか。
もちろん血液型診断を信じる人も、それが世界のすべてを説明するようなものなどとは決して思っていないだろう。ただそうは言いながら、結局自分の敷いた枠の外側へ出ようとしないということは大いにあり得る。アリバイ的に客観性を装うのは構わないが、損するのは結局自分である。「歳を重ねると頑固になる」とはよく言われることだけれど、おそらくそれは半分しか正確でない。肝要なのは自分の「セカイ」を拡張すること、加えてそれを死ぬまで継続していけるかどうか。それだけだろう。そして自ら引く「セカイ」の限界線は、いわば年齢を重ねるごとに弾力を失っていくようなものではないか。年配者であっても「セカイ」は拡張していける。ただそれはもちろん若いうちに取り組むようにはいかないということだと思う。自らの足場は一時的なものであり、それを切り崩し続けること。それを唯一の〈足場〉とする方法を学ぶのは、失うものが少ないうちに始める方が良いに決まっているからだ。
*1:なお僕はじっさいに「(A型なのにB型っぽいから)病院でほんとうの血液型を調べてもらったら!」と言われたw
猪瀬副知事「東京都の尖閣購入は本来外交問題じゃなかった」
日本の領有は正当/尖閣諸島 問題解決の方向を考える
尖閣諸島購入については、「また例のナショナリストが……」とぼんやり思っていたのだけど、東京都(猪瀬副知事)の見解はちがうようだということが分かったのでまとめてみました。
尖閣諸島購入の経緯
東京都の見解は、
- 尖閣諸島は日本の領土である。
- ただし、国は40年にわたり島を賃貸してきたが、中国との関係悪化を懸念して保全を怠ってきた。そのため、これ以上の放置=環境破壊になってしまう現状がある。東京都は小笠原の世界自然遺産も含めて、環境調査等をやってきた実績があり、島の生態系をきちんと維持すべきと考えている。
- また、尖閣周辺は漁業資源が豊富だが、島に最低限の設備もないため漁船を一時的に停泊させることも出来ない。電波塔、船だまり程度の設備はいずれにせよ誰かが管理しなければならない。
- 地権者の寿命の問題もあり、相続の問題が発生する前に所有権を東京都に移す手続きを取ることに。そこで適正価格含め、民主主義のルールに則った調査・プロセスを踏み、情報公開しながら進めてきた。この時点では単に管理の主体が変わるだけであり、外交問題ではない(国内の所有権移転の問題に留まっている)。
- ただオーナーが「手付金がほしい」と言ってきた(島も投資目的で持ってたみたい)。都としては民主的なプロセスを踏む以上、事前に金を渡すことはできないと説明。
- ほぼ金額の目処が立ち、具体的な手続きが進むことになったところで国が割り込んできた(外務省から国へ「石原にやらせておくと危ない。止めてくれ」との話が出たとか)。都の提示した金額を上回る額やビジネス上の利益(税務署の対応とか)を考え、オーナーは国への売却を決める。ただし国は購入金額の根拠について説明ができない。もちろんこのお金の出所は国民の税金。
- こうして島の国有化が決まる。ところが中国からしてみると、国有化=軍備増強という解釈に。ここで外交問題に発展。東京都からすると、国内問題を国際問題に発展させたのは野田政権の落ち度である。
- 金額の目処が立った頃、猪瀬副知事の呼びかけで尖閣購入の寄付を募り、約15億円を確保していた。これは税金を節約するための方法論であり、猪瀬副知事が主導して進めたもの。石原知事のイデオロギーとは無関係。
- 寄付金は「島々が有効に活用されるための施策」にあてられる。国の購入が決まってしまったが、都が計画していた電波塔や船だまりを国(次期政権)が進めてくれるのであれば、寄付金は国に渡し活用してもらう予定。
と、おおむねこんなところのよう。
寄付金について
以上の経緯から、「石原知事が外交問題を引き起こした」という話が誤解であることは理解できました。ただしそれとは別に、東浩紀氏も指摘するように、東京都が島の購入代金にあてる寄付金を募ったという事態が、国内のナショナリズムを不用意に煽った(石原知事のイデオロギーも相まって)という側面は確実にあるでしょう。僕も猪瀬氏は信頼しているけれど、この判断にはもっと慎重であって良かったように思います。
これもニコ生思想地図の対談で語られていることだけど、「日本固有の領土である」という主張が正当であるとしても、歴史を知っている人間とそうでない人間がするのでは全く意味がちがってしまう。正当性の背後にある複雑な事情を想像することが出来ないからです。いま尖閣問題や竹島問題で熱くなっている人たちの多くは、自分と同じように、歴史を学んでこなかった人たちのような印象しか持てません*1。そうした人たちに対して、政治はどのような言葉で語りかけていけばよいのか。こうした根深い問題を前にして、大きな話をしていく必要性をより強く感じます。
参照ソース
外務省: 尖閣諸島の領有権についての基本見解
猪瀬直樹 公式サイト || 猪瀬副知事 ニッポン放送「上柳昌彦ごごばん!」(2012.9.5) 発言要旨
猪瀬直樹さん尖閣国有化の裏側について語る - Togetter
関連記事とか
*1:もちろんこれは教育政策の問題でもあるわけですが。
'10年生まれの20歳は、新人類世代でいえば16歳
ここ2年ほどは対前年比で減少している日本人の平均寿命ですが、戦後は基本的に右肩上がりで上昇してきました。要するに「個人の人生が長くなった」わけです。この事実はあまりに基本的な常識ように思われますが、当然僕たちが自分の人生を捉える視点にも大きく影響してるだろうなーと改めて思った次第です。
平均寿命(日本) - Google Public Data Explorer
年代 | 1960 | 1970 | 1980 | 1990 | 2000 | 2010 |
---|---|---|---|---|---|---|
平均寿命(歳) | 67.67 | 71.95 | 76.09 | 78.84 | 81.08 | 82.93 |
対 2010年比 | 0.815 | 0.868 | 0.918 | 0.951 | 0.978 | 1 |
2010年における日本人の平均寿命は82.93歳だそうですが、これを基準として過去の平均寿命の比率をだしたのが上の表です。これを見れば分かるとおり、日本人の平均寿命はこの50年で2割近くも伸びていますよね。
このことをちょっと違った視点からみてみましょう。1960年生まれ(新人類世代)の人が20歳になった時点というのは、人生全体における約3割(20 / 67.67 = 0.296)を経過した位置であるのに対して、2010年生まれの人が20歳になった時点というのは、人生全体における約2.4割(20 / 82.93 = 0.241)を経過した位置にすぎません。別の言い方をすれば、人生全体という観点から見たときに、2010年生まれの人にとっての20歳という地点は、1960年生まれの人にとっての16.3歳相当ということです。
もちろん、一個人の人生における20年間という期間は年代を問わず〈同じ〉20年間でしょう。僕たち自身、平均寿命をつねに意識して〈いま〉を生きているわけじゃない。しかしながら、人は〈いま〉という刹那的観点からのみ人生を眺めるのでもないわけで、その意味において「同じ」ではありえないはずなのです。
たとえば極端な話、いまから数年で医療がめざましい進歩を遂げ、2020年に生まれた人の平均寿命が200歳まで伸びたとします。そのとき、20年間という期間を僕たちとまったく同じ感覚で彼らに適応するのは、やはり難しいのではないでしょうか? 20歳を迎えた時点では、たしかに彼らも、現代を生きる僕たちと似たような肉体・精神の成長を終えていると思われます。でも彼らの人生はまだ、そこからほぼ確実に100年以上残されている。社会全体の構造は当然変わらざるを得なくなり、各個人の意識のありようも大きく変わってくるほかはないでしょう。「働き盛り」の概念も現状と同じとはとても思えないし、40歳で結婚はもはや「晩婚」とはいえませんよね。
多くの場合、親と子の世代差はおよそ20〜30年あります。年齢を基準にした感覚のギャップが生まれる要因は、まずこの単純な事実にも見出せるのだろうなーと。
*
科学技術や医療の発達は、結果的に成熟途上の許容期間(モラトリアム)を拡大するという側面が確実にあるのでしょうね。そしてこれは必ずしも悪いことではない(というよりどうしようもない)はずです。「何をもって成熟とするか」とか、「そもそも僕たちの社会に成熟の機会はあるのか?」という論点については、また改めて書きたいと思います。
外交は「永久に平行線」でいいのかもしれない
Takeshima island and Satsuma-Iwo-jima island / tsuda
領土問題と歴史認識問題がアツイですね〜〜。この分野は全然勉強が足りてないのですが、歴史と外交戦略について、現時点での考えをまとめておこうと思います。
歴史とはそもそもなにか
「歴史」というと、僕たちはなにか「客観的な過去の事実」の蓄積みたいなものと捉えがちです。でもちょっと冷静に考えれば、そう単純でないことが分かります。
絶え間なく続いてきた<いま>の連続のうち、ある時点で起きた出来事Aと別のある時点で起きた出来事Bを選び出し、それを因果的に結びつけていく作業が「歴史を語る」という行為になります。でもAとBが選ばれたその時、その2地点の間に起きた出来事Cがスルーされている可能性は常にありますよね。その意味でAとBが選出されたことは恣意的です。また、AとBの間をつなぐ「ストーリー」が各種の資料・記録をもとにした推論である以上、常に反論の余地が含まれます。「歴史とは原則的にフィクションである」という言い方は極端に聞こえるかもしれませんが、一面の真実だといえるのでしょう。
そう捉えると、客観性とは「その解釈は妥当だ」とする納得性の問題ということになります。そしてその納得性には、解釈者の背景にある環境や文化的条件(もちろんすでに解釈された歴史自身も)が関わってくるでしょう。当然、文化圏や立場が変われば、妥当とされる解釈のありようが変わるのであり、複数の「妥当で中立な」歴史観が生まれてきます。これはもちろん一国の内部においても事情は同じですが、いまの世界においては、おおむね国家単位ごとにひとつの公式な歴史記述が存在する、と考えて良いかと思います。
韓国と日本の歴史に対する考え方のちがい
以上のような認識のもとで、政治学者の木村幹氏(@kankimura)と社会学者の金明秀氏(@han_org)のやりとりを興味深くよみました。
日本人にとって、自分たちが受けてきた教育を「民族教育」と言われることには、ややギョッする思いもしますが、いわれてみればたしかにその通りなのです。これは良い悪いの問題じゃなく、特に歴史教育とはそういう側面を少なからず持っているということ。韓国はそこに自覚的で積極的に利用しているし、日本はその自覚が弱い分、「中立」な教育を受けていると思い込んでしまうという話ですよね。ともかく歴史というのは、国ごとにそれぞれの解釈によって形成されている。これ自体はどうしようもないことでしょう。
外交の「成功」とは何か
他方で各国がそれぞれ自由に解釈すればいい、と言ってもまったくの自由に「創作」できるわけではない。他国との接点にあたる部分で、解釈のちがいが問題になることは当然起こりますが、そのズレがあまりに大きいことが分かれば、双方の国内で自国の歴史記述に対する不信感が高まるからです。そこが外交問題と密接に関わってくる。
一国の立場からみれば、自国の歴史観を全面的に相手に承認してもらうことがもっとも望ましいのは言うまでもないことです。しかし実際には、そうした同じ思惑をもつ国家同士の衝突なわけで、そんな都合の良い話が(平和的手段では)実現するわけがない。したがって必要なのは、自国の利益(正しさ)を主張しながら、相手の譲歩を引き出す妥協点を探ることが戦略として重要になってくるのでしょう。外交とは、積極的に妥協の道を探ることと言い換えてもいい。
時に外交は、失敗した方が国内的には賞賛されることがあります。つまり外交上の成功とは本来なら相手国との合意であり軋轢の解消であるはずですが、むしろこれを快く思わない人が多い社会では逆になるわけです。相手国との関係を破綻させ、摩擦をより大きくした方が国内的には評価されるのですね。「連盟よさらば!」と国連を脱退した松岡洋右は英雄として当時の日本では大絶賛されました。その精神は、現代にも脈々と受け継がれているように思います。(…)政府が国民の支持を取り付ける上で求められるのは、外交の場面でいかなる成果を上げることなのでしょう?
結局のところ、「毅然とした態度」なるものを貫く姿こそが国内的にはもっとも重視されていると言わざるをえません。「国交断絶も辞さない」とかまで行くともはやネタ(誰が得するの?)でしかないですが、そこまで行かずとも、自国にとって何が得で、何を優先すべきかほとんど考慮していない明快な主張の方が、人々の支持を集めるわけですよね。妥協しないことの方が大事!みたいな。
いまの日本は特に、長らく続いてきた「決められない国」呪縛への反動によって、とにかく改革、とにかく削減、とにかく決断の圧力がすさまじい。「曖昧にしておく」という外交上不可欠なカードは、つねに弱腰外交として批判される立場にあるのだけど、今は左右問わず「毅然とした態度」を支持しておくのが圧倒的に(国内的に)安全な選択になっているのでしょう。
そういえば、経済成長云々では内向き外交を批判する実業家たちが、こうした場面だと「毅然とした態度」外交を積極的に主張する姿も見慣れた光景ですよね。ハハ・・・。
本日の「不退転の覚悟」
そうした視点からみれば、野田首相の発言は日本側の見解は明言した上で、内外に「冷静になろうぜ」と呼びかける意図があった、とは思います。自国民のプライドを最大限尊重するタテマエ上の「毅然とした態度」と、相手国にも言いたいことは「適度に」言わせておく。両国ともに、相手が本気で乗ってきたら困るのです*1。
これでいいじゃん、とか僕は思うんですけど。
竹島は歴史的にも国際法上も日本の領土であることは何の疑いもない。韓国は(1952年に当時の李承晩大統領が洋上に)不法な「李承晩ライン」を一方的に設定し、力をもって不法占拠を開始した。
竹島の問題は歴史認識の文脈で論じるべき問題ではない。戦後の韓国政府による一方的な占拠という行為が、国際社会の法と正義にかなうのかという問題だ。韓国側にも言い分はあるだろうが、自国の考える法と正義を一方的に訴えるだけでは建設的な議論は進まない。国際司法裁判所の法廷で議論を戦わせ、決着をつけるのが王道だ。
尖閣諸島については日本固有の領土であることに疑いはない。領有権の問題は存在しない。中国が領有権を主張し始めたのは、東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘された1970年代以降だ。
北方領土問題は全国民の問題だ。法と正義の原則を基礎として、静かな環境の下でロシアと交渉を進めていく。
いたずらに国内の強硬な世論をあおって事態がエスカレートすることはいずれの国の利益にもならない。当事者同士が大局を見据え、決して冷静さを失わないということも欠かせない。(日本と韓国は)主張に違いはあっても、互いに冷静に対応すべきだ。基本的な外交儀礼まで失するような言動や行動は互いを傷つけ合うだけで、建設的な結果を生み出さない。韓国側の思慮深く慎重な対応を期待してやまない。