「子どもを産まない」という選択と痛み


Puppy 1.25.09 / waimeastyle


「毎月こんな痛い思いしてるのに、子ども産まなかったら無意味だ」


先日、パートナーである彼女が思わず口にした言葉だ。


うちは、見た目上、シスヘテのカップ*1なのだけど、ふたりとも30歳を迎えて、「子どもを作るか否か」問題がしぜんと意識されるようになってきた。といっても、いまはまだ、なんとなくである。


子どもが産まれた友人・知人が周囲に何組か出てきたこともあって、子どもの居る生活の豊かさを徐々に想像できるようになった。一方で、育児の大変さを中心とした不安な気持ちもやっぱり大きい。いまのぼくたちふたりは、低収入ながら比較的好きな仕事をそれぞれ選択できているが、あくまでもふたりだけの生活が前提になっている。子どもを迎える*2には正直かなり心許なく、当然、はたらき方も含めたライフスタイル全体を考えていかないといけないが、その準備もこれといってしてはいない。現在のパートナーの存在は前提にしたうえで、「子どもの居る生活もきっと楽しいだろうなあ」となんとなく確信はするのだけれど、積極的に踏み切るまでの要因がいまのところない。


ふたりとも「一生のうちには、子どもを産み・育てる経験をしてみたい」という気持ちは一致している。でもそれが、「いますぐか?」と言われれば躊躇してしまう。反対に、「子どもは作らず、ふたりだけで過ごす人生もそれはそれできっと楽しい」とも語り合う。とはいえ、「子どもを産む機会をみすみす逃した」という後悔がいずれやってくるのではないか、という疑念を振り払うことはおそらく不可能だ。いずれにせよ、適齢期的な問題があるから、知らず知らず焦りを感じてしまうのだろう*3


わが子を迎えた先駆者たちは、異口同音に「子どもが出来ると今まで見えなかった世界が見えてくる。悪くないよ」と素敵エピソードを聞かせてくれる。実際そうなんだろうなあと思う。他方で、子どもを作らずに過ごす人生の豊かさもぜったいにあるし、それは子どもを作った人には体験しえない世界だろう。むろん両者のあいだに優劣はない。──そのはずだが、どちらかといえば、子どもを迎えなかった方の世界に幾ばくかの否定的なイメージを抱いてしまうのは否めない*4



そして冒頭のひとことである。ぼくは動揺して、パートナーの腰を擦ることしかできなかった。観念的にはそれなりに近しいことを共有しているとしても、否応なく襲ってくる身体的な切実さが、ぼくにはまったく欠けていることに気付いたからだ。彼女もべつに「子どもを産むのが女の幸せ」だと思っているわけではないだろう*5。それでも、身体構造上与えられてしまった「意味」を引き受けずに、まったく無かったことのように振舞ってよいのだろうかという迷い、そのような思いがはっきりと見て取れた。
たとえ惰性的であっても「子どもを産まない」という判断は、男女を問わず、「子どもを産む」に劣らない選択であるだろう。けれども、とりわけ女性である彼女にとっての「産まない」という決断の重大さは、男性のぼくのそれと容易に同一視できるものではないのかもしれない。身体の痛みを引き受けるのは彼女であり、その痛みの意味を剥奪される苦痛もまた彼女が(直接的には)引き受けざるをえないのだ*6


「それじゃあ!」と言って子どもを産む覚悟を持てるか。というと、そうでないから悩ましい。


10年近く一緒に過ごしてきたなかで、パートナーとの関係を危うくする要因のひとつは、ぼくの「男らしさ」の欠如*7(と、それをぼくに求める彼女との関係性)だった。長い長い苦難のすえ、お互いに「男らしさ」や「女らしさ」は恋愛上のファンタジーとして楽しむもの──ようするに絶対視するものではなく、また完全に否定してしまう必要もないもの──と割り切れるようになって、ふたりの関係はずいぶん自然でラクなものになった。それでも、こういう場面を迎えるたび、結局ぼくは「男らしさ」的なるものが解決している諸問題にいちいち躓いているのではないか、という気がしてくる。


ぼくは不安に直面してしまうと、そこで身動きが取れなくなってしまう。出産・育児にかんしていえば、まずなによりパートナーが出産を経てもなお元気でいてくれるかが気掛かりだし、無事に子どもが生まれたその後の生活も、子どもに冷淡なこの社会のあり方も心配だ。不安要素を挙げ始めたらキリがないのは分かっている。けど怖い。ぼくは自動車の運転操作に恐怖を感じ、駅のホームに立つと背後にいる人の存在感が異様に大きくなり警戒する。自動車や電車の利便性とか、それじたいに楽しさがあることはむろん理解している。実際やってみると大したことじゃないのも分かっている。だとしても、不安の要素はそのこととまったく無関係に両立してしまうし、ネガティブな側面が必要以上に強調されてしまうことも少なくない。ちょうどそれと同じように怖いのだ。そういうとき、どう克服したらよいのか分からない。


「無意味だ」という彼女の痛みに寄り添いたい。それは子どもを産む決断をすることなのか、「そんなことないよ」と無意味の絶望観をいっしょに溶かしていくことなのか、いまはまだ分からない。時期さえ問われなければ、ふたりの子どもはむしろ欲しい! とは思いながら、成り行きに任せて受身でいることは不正義*8になるだろうか。そんなことを延々考えてしまう。

参考記事

「子どものこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」

私は黙って、困った顔をして笑う。なぜ「産まない=考えていない」のだろうか。散々、考えた挙句、産んでいないのだ。


このぐるぐるまわる子産みをめぐる思考の輪から、いったいいつになったら逃れられるんだろうか。そして、こんな使い古された一言に、動揺せずにいられる方法を知りたい。

「子どものこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」という暴力 - キリンが逆立ちしたピアス

産みたい/産みたくないという気持ちは二値的なものではないし、単線的なものでもありません。


他方で、産む/産まないの行為は二値的なものです。(……)どこかで、親になることを自己決定して、親になるのです。気持ちの上では複雑な思いも、行為として現れるときには産む/産まないというどちらかでしかありません。

産むことと産まないことの間 - キリンが逆立ちしたピアス

結婚しても子どもをもたない人生を選択したことを後悔はしていない。けれども正直に告白すると、夫や夫の両親に対して「わがまま通してごめんね」という気持ちを今でも私はもっている。

「そんなこと思う必要全然ないよ。あなたの人生なんだから」と友人は言った。その通りだとは思っているが、「ごめんね」という感情は、小さいけれどもいつまでも消えない染みのように残っている。

そして、そういう自分に時々軽くうんざりする。

「結婚+子ども」という「幸福」のセット通念 - Ohnoblog 2


引用したお二方のエントリーを読んだ当初は、社会通念との葛藤という側面しか見ていなかった。それでも抑圧として機能してしまう規範への告発は十分に読み取れたし、あるいはぼく自身、両親にたいする心情など近い部分もあって共感もした。


けれど上述したような身体的差異を考慮してみたとき、ぼくの共感や想像は十分でなかったように思われた。日常の延長線上に「子どもを産まない」がある男性とは異なって、同じく延長線上にあるとはいえ、定期的に「子どもを産む」機能としての身体を自覚させられる女性にとって、「子どもを産まない」というのは思いのほか大きな決断なのではないか、と。たとえばぼくの身体が女性のものに変わるとしたら、同じ選択をするにせよ自罰感情は飛躍的に大きくなるような気がする。不条理な気分さえするかもしれない*9。逆にいうと、男性側からの語りにおいては、身体的な痛みにたいする想像力が欠如している場合がほとんどではないかと。そんなことにも気付かされた。

*1:ストレート同士の異性愛、いわゆる「ふつう」のカップルということ。

*2:ここでは出産経験のほか、養子を迎える場合も視野に入れている。もちろん両者の「意味」は異なるけれど、育児経験はかならずしも出産経験の帰結ではないと思うので。どちらかが欠けてもダメなのか? はぼく自身まだよく分からない。

*3:「考えすぎ」「何らかの勢いが必要だ」とか言う人は多いのだけれど、そんな理屈で自分を納得させられる人間だったらこんな文章は書いていないだろう。事後的にみれば「勢い」でしかないとしても、少なくともぼくにとっては、事前に「勢い」のままでは難しい。

*4:「子どもを迎えた方にポジティブなイメージ」でない、機会損失的に捉えてしまっている点がポイントのように思う。なお、これはあくまでも自分自身の選択にたいするイメージであって、出産や子どもを迎えることを選ばなかったカップル一般を語るものにあらず。念のため。

*5:ただ完全に捨て切っているわけではないかもしれないし、その必要もないと思っているけれど。

*6:たとえば、ピルを飲むことで問題の半分は解決できるのかもしれない。とはいえ、残りの半分がそれで解消できるとは思えない。

*7:その一例が以下の記事:立ちションできない男の子──男子トイレという恐怖空間

*8:自分でこの言葉を選びながら、「どういう意味で?」とも思う。

*9:たとえば、『新世紀エヴァンゲリオン』のアスカの自己嫌悪や、『西荻夫婦』のミーちゃんの「うしろめたさ」もこの視点に立って初めて共感できるのだった。