立ちションできない男の子──男子トイレという恐怖空間


20070511_180952_P5110010 / くーさん


30歳になった。ずっと読みたかった雑誌をパートナーがプレゼントしてくれたので、今日はその感想がてらエントリーを綴りたい。目当ての記事は、男子トイレという空間のもつ政治性について論じたエッセイ、「メンズ・ルーム」(リー・エードルマン)である。


このエッセイの存在を知ったのは、以下のエントリーがきっかけだった。

空間の政治学は性的なものである──空間は単なる抽象的存在ではなく、政治的に無色透明なものではないのだ。

セクシュアリティと空間 - HODGE'S PARROT


空間の政治性。建築をめぐるこの大きなテーマじたい興味深いものであるのだが、とりわけぼくの目を引いたのが、男子トイレ──「それは小便器ばかりが並ぶ窓のない部屋である」──への言及があったことだった。なぜぼくは男子トイレを論じたそのテクストに大きな関心を寄せたのか? 感想に入るまえに若干の説明を加えておきたい。

トイレに行動を支配され続けた思春期

ぼくは立ちションが出来ない。


正確にいうと、まったく出来ないわけじゃないし、肉体上の物理的問題があるのでもない。自宅のトイレであればなんの問題もなく立った状態で用を足すことができる。ただ、公衆トイレなどで人と並ぶと用を足せない、尿意はあるのにおしっこが出なくなってしまう。並ばれなくても、洗面台周辺に人がいるのもダメ。個室での排泄行為にはさほど支障はないのだが。


記憶にある中でそうした「症状」が生じたのは、小学六年生の家族旅行のときが最初だったと思う。旅先で公衆便所の長蛇の列に加わった。やっと自分の番がやってきたとき、背後で待つオッサンたちのプレッシャーに妙に急かされた気分になり、用を足すことが出来なかった。しかも何故か、そのことを家族に言えなかった。「いま自分が置かれている状況全体が恥ずかしい」という感覚をもった。そのトイレ休憩のあと、本来なら当然解消されているはずの排泄欲求と戦いながら継続されるドライブ。次のトイレ休憩までが長く苦しかった。


その後、明確に「できない」と自覚したのは中学校の入学式当日だったと思う。式の直前に席を立ち向かったトイレ。隣には──真横に並んだわけでなく、四つある小便器の両端だったような気がするが──同じ小学校出身の友人が並んだ。不可解なプレッシャーを感じた。結局、尿意は解消できぬまま式へと向かった。


それ以降はもうトイレのことばかり考える毎日になる。どの時間帯、どこのトイレなら誰とも並ばずに用が足せるのか。学校に居るあいだ中、片時もそのことが頭から離れない。一日の行動は「いかに自然に誰もいないトイレに入るか」に支配される。個室に入るという選択肢は容易に選べなかった。小学校時代に比べれば多少抵抗は薄れていたとはいえ、なにしろトイレのたび毎回のことだ。個室に入るのが自然な女子たちのことを羨ましく思った。


水分摂取は極力控えた。ただどんなに努力しても、在校中二回の排泄機会は避けられない。また学校以外でも、誰かと(特に男友達と)出かけるのは気が重い。次第に友人たちと距離を取るようになっていった。泊まりのイベントやフェスに参加したい気持ちはあっても、もはやトイレで苦労する場所に行きたくないという気持ちの方が圧倒的に強くなっている。ぼくはこうして引きこもっていった。



こんな体験談を聞いても「まったく理解できない」と言う人の方が多いんじゃなかろうか。というかぼく自身、全然意味が分からなかった。小便器の前に立つたび、確実に襲ってくる不安のナゾ。なぜこんなことで自分は悩んでいるのか? いったいなにを意識しているのか? 一体なにが原因でどうすればこの不安のマグマを取り除けるのか? まったく解決の糸口が見つからない。誰に相談すればよいのかわからない。そもそも周囲にそんなことで悩んでいる「男」はまったく居ないように思えたし、そのことがさらに自分を追いつめた*1


ただ大学生、社会人になって、「症状」はいくらかマシになった。思春期のピークを抜けたという要素もあるかもしれないが、ひとりで居ることへの心理的抵抗感が薄らいだというのもひとつ大きな要因と思う。上述のような心理状況だったから、トイレに気を使う心配が増えぬよう、大学では同じ学科内の友人は極力作らずいつもひとりで居た(反面、つねに孤独感と戦うはめになった)。また大学ともなると、トイレで居合わせるのもお互い知らない者同士(匿名の存在)ということが増える。個室に入る抵抗感もずいぶん和らいだ。


個室での排泄はたいてい大丈夫なことや、大規模トイレの離れた場所に人が居る状況はクリアできたりすることから、次のようなものがキーワードだろうなという当たりがこの頃からつき始めていた。

  • 他人の気配
  • 排泄の音
  • 視線
  • 排泄に要する時間への焦り
  • 匿名性
  • 「自然なふるまい」への憧れ、強迫感

男子トイレに満ちた政治的メッセージ

理解はできないながらも、ぼくが男子トイレにたいして並々ならぬ思い(というか因縁?)があることはそれなりに共有していただけた、と仮定して話を進めよう。上記に挙げた観点も未だ十分には整理しきれていないけれども、それを補強する意味で、「メンズ・ルーム」で取り上げられた論点を整理しておきたい。今後この問題を考えるにあたって、きっと有益と思われるので。

(……)とはいえ男子トイレは無論、(……)まったくの機能性の論理の、その過剰において機能しているのである。男子トイレとは、それゆえ身体上のやむにやまれぬ事柄に関連する衛生的配慮への技術的な返答なのだと明らかに考えられるだろうが、しかし、それは、それ自体でひとつの社会的な技術を構成しているのであり、そのため、男子トイレは、男性の主体と彼の身体との間に、ある関係性を要請することになるのである。簡潔に言えば、男子トイレの設計には、男性についての設計が目に見えて含まれている。すなわち、それは、男性を設計しようと望んでいるのだ。

リー・エードルマン「メンズ・ルーム」、『10+1』No.14(1998年) p.130


当然のことながら、男子トイレは、その利用者を男性器の所有者であると前提して設計された建築物だ。小便器の前に立つとき、利用者自身が「男」であることを示すまさにそのものを露出することを迫られている。利用者の身体構造に機能最適化させた場であることのちょうど裏返しに、自分が「男」であることの自覚をその都度促されるような装置、小便器とはそのような施設に他ならない。


エードルマンはまた、男子トイレがプライバシー(私的な領域)を提供する目的でその外部から分離された空間であると同時に、その内部に、「公の領域と私的な領域という区分が男子トイレの中に再び設けられて(p.131)」いることを指摘する。トイレの外部における私的な領域とは、むろん性器(とその表出可能性)を指示している。ところが、男子トイレの内部では事情が一転する。公の領域とは小便器のことであり、私的な領域とは個室のことである。つまり男子トイレの内部では、性器の露出をめぐって外界の秩序との逆転が生じているのだ。「すなわち、男子トイレでは尻を見せるな、そしてムスコ(ディック)は隠すな……。(p.131)」


「公の領域」において性器の露出を要請される空間。その奇妙な装置を前にして、利用者たちは不安を生じずにはいられない、とエードルマンは語る。彼によれば、その要因となるのが隣人の「眼差し」である。

ヤハウエの顔を見ることの禁止は、彼の名を語ることの禁止とひとつになっているけれども、それと同様、ここでは、法は、男性の眼差しがその隣人のムスコのもとに留まることを禁じているのであって、またそれは、あらゆる男性が知っていなければいけないが、禁止によって誰も決して口に出してはいけない事柄にもなっているのだけれども、かく自らがあることに、この法は黙して耐えているのである。

p.136


ではなぜ「隣人のムスコ」のもとに視線を留めてはならないのか? それは同性愛的な欲望を喚起させるからだ。そうした視線を向けられた男性(=性的主体)は、女性化される恐怖に遭遇することになる*2

貫かれること、モノにされること、性的客体となることを、べつの言い方で「女性化される」とも言う。男性がもっとも怖れたことは、「女性化されること」、つまり性的主体の位置から転落することであった。

女/男が抱える「生きづらさ」の正体@『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』 - ねぼけログ


冷静に考えてみると、もしも自分の表出した性器を見られたくないのであれば、個室というよりプライベートな領域に入ってしまうのが最も確実な方法のはずだ。ところが男子トイレという空間において、そのような論理は働かない。問題の所在は自分の性器にまなざしを向ける相手の側にある、とみなすこと。互いに儀礼的無関心をつらぬくこと。──それが利用者たちの間で、暗黙のうちに共有されたルールである*3


比較的新しめのトイレの場合には、各小便器のあいだには仕切りがあって、性器に向けられる隣人からの視線を受けづらくするような配慮がされている(公園などにある古いトイレに至っては仕切り自体が存在しないことも多い)。たしかにその目隠しによって、互いの持つ、見られる/見てしまうという心理的負担をいくらか軽減してくれてはいるものの、やはり完全に隠されているとは言い難い。「別に見たくもないし、見ようと思わなければ見えないぞ」と反論を受けるかもしれない。しかし、ここで重要なのは、隣人の性器がじっさいに視界の中に入るか否かというよりも、エードルマンが指摘するように、無意識的かつ意識的に「見てはならない」と互いに自らを律しているという点のように思われる。(「わざわざ個室に入ることがたんに面倒くさいのだ」という反論も想定されるが、その点については後述する。)

とはいえ、小便器は、盲目性を強要することではなくて、視野そのものの中に盲目性を誘発することを目指している。

p.140

(……)男として通用するようになりたいと思う者はすべて、言葉ではなく行ないで、おのれの信仰を示さなければいけないのだ。すなわち、小便器のもとでは、見るべきものは何もない。そして、それを利用する者は、隠すべきものを何ももたない……。

p.141


かくして、男子トイレ内の小便器周辺は、「男」であるという自らの属性を証明(もっといえば誇示)することを要請されながら、同時に、他者の視線による女性化への恐怖(=性的主体のアイデンティティ不安)を誘発するアンビバレントな領域である、ということができる。言い換えると、小便器の利用者たちは次のような規範を互いに受け入れ、実演してしまうことになるのである。

男子トイレの論理は、警戒心に満ちた無頓着さなるものを、規範として制定=実演することを強制しており、それこそは、視覚的な関係に対して男子トイレが及ぼす規律上(ディシピリナリー)の圧力に、対応したものとなっているのである。

p.132


「警戒心に満ちた無頓着さ」、これこそがぼくを抑圧してきた象徴的な光景にほかならない! こうした振る舞いの反復、再生産の輪へと自分が加わることにはきわめて大きな抵抗感を持ってきた。けれども同時に、こうした振る舞いにやはり倣うべきだという気分もまたどうしても捨てられなかったからだ。それが何故なのかはずっと分からなかった。しかしいま、そうした表象の背後に潜む構造のいくらかは見えてきているのではないか。



ところで、女性化の恐怖という観点から考えてみると、個室の使用には、用を足すというたんに機能的な意味合いとは別に、むしろ、性器の表出行為にたいする過剰な防衛の態度──「公の領域」における性器表出の忌避──を読み取ることが可能かもしれない。小中学時代には、学校の男子トイレで個室に入ることは嘲笑の対象となったものだけれど、あれはたんにウンコをしているから馬鹿にし、またそれを恐れるのではないのかもしれない。言うまでもなく、子どもたち自身、誰もがウンコをすることくらい理解している。にもかかわらず、こうした理不尽な冷やかしが行われてきたのは、「男」を示すべき領域からの逃走を試みる者への軽蔑と不安の心理が背景にあるのではないか*4。そのように考えると、「わざわざ個室に入ることがたんに面倒くさい」という先述の主張は、そこで生じる不安そのものを隠蔽するような効果としても働いているのではないか、という気もしてくる。


以上見てきたように、自らが「男」であることの自覚をその都度促し、「男であれ」と(単一の)振る舞いを自己の内外から要請する、そのような空間が男子トイレである。小便器の前では、まさにこの瞬間にも、「男」の沽券をめぐる絶え間ないチキンレースが執り行われているのだ。


むろん、「だからどうした」という人が圧倒的多数派だろう。とはいえ、そのきわめて強い政治性は認識しておいても損はないように思う。とりわけ、ぼくと同じような抑圧を感じている方にとっては克服のヒントになるかもしれない。引き続き、公衆トイレ問題については考えてまいりたい所存。

追記

ブコメで何名かの方が言及されてたので、簡単に調べてみました。続編というか補足的記事として。
パーソナルスペースについて──混み合い、匿名性、身体境界

*1:当時(90年代)はまだネットで検索できるような環境は身近にない。いまの中高生と同じ環境があったなら、もしかしたら随分状況はちがったかもしれないとも思う。

*2:エードルマンは女性化に加えて、「幼児化」という要因も挙げている。ただその論点について、ぼくはいまいち実感に乏しいというか、消化し切れていない。今後の課題。

*3:なお、ぼくは自身の性器そのものにたいしてコンプレックスを持っているわけではなく、そのことが抑圧の直接の原因とは捉えていない。もちろんこの主張は、性器にたいして自信を抱いているということを意味しない。

*4:とはいえ、女子トイレにおいても「大でしょ!?」の冷やかしを避けるために、個室の滞在時間に神経を使うという話は小中時代には耳にしたし、ウンコにたいする忌避感も当然軽視はできない。