外交は「永久に平行線」でいいのかもしれない


Takeshima island and Satsuma-Iwo-jima island / tsuda


領土問題と歴史認識問題がアツイですね〜〜。この分野は全然勉強が足りてないのですが、歴史と外交戦略について、現時点での考えをまとめておこうと思います。

歴史とはそもそもなにか

「歴史」というと、僕たちはなにか「客観的な過去の事実」の蓄積みたいなものと捉えがちです。でもちょっと冷静に考えれば、そう単純でないことが分かります。


絶え間なく続いてきた<いま>の連続のうち、ある時点で起きた出来事Aと別のある時点で起きた出来事Bを選び出し、それを因果的に結びつけていく作業が「歴史を語る」という行為になります。でもAとBが選ばれたその時、その2地点の間に起きた出来事Cがスルーされている可能性は常にありますよね。その意味でAとBが選出されたことは恣意的です。また、AとBの間をつなぐ「ストーリー」が各種の資料・記録をもとにした推論である以上、常に反論の余地が含まれます。「歴史とは原則的にフィクションである」という言い方は極端に聞こえるかもしれませんが、一面の真実だといえるのでしょう。


そう捉えると、客観性とは「その解釈は妥当だ」とする納得性の問題ということになります。そしてその納得性には、解釈者の背景にある環境や文化的条件(もちろんすでに解釈された歴史自身も)が関わってくるでしょう。当然、文化圏や立場が変われば、妥当とされる解釈のありようが変わるのであり、複数の「妥当で中立な」歴史観が生まれてきます。これはもちろん一国の内部においても事情は同じですが、いまの世界においては、おおむね国家単位ごとにひとつの公式な歴史記述が存在する、と考えて良いかと思います。

韓国と日本の歴史に対する考え方のちがい

以上のような認識のもとで、政治学者の木村幹氏(@kankimura)と社会学者の金明秀氏(@han_org)のやりとりを興味深くよみました。




日本人にとって、自分たちが受けてきた教育を「民族教育」と言われることには、ややギョッする思いもしますが、いわれてみればたしかにその通りなのです。これは良い悪いの問題じゃなく、特に歴史教育とはそういう側面を少なからず持っているということ。韓国はそこに自覚的で積極的に利用しているし、日本はその自覚が弱い分、「中立」な教育を受けていると思い込んでしまうという話ですよね。ともかく歴史というのは、国ごとにそれぞれの解釈によって形成されている。これ自体はどうしようもないことでしょう。

外交の「成功」とは何か

他方で各国がそれぞれ自由に解釈すればいい、と言ってもまったくの自由に「創作」できるわけではない。他国との接点にあたる部分で、解釈のちがいが問題になることは当然起こりますが、そのズレがあまりに大きいことが分かれば、双方の国内で自国の歴史記述に対する不信感が高まるからです。そこが外交問題と密接に関わってくる。


一国の立場からみれば、自国の歴史観を全面的に相手に承認してもらうことがもっとも望ましいのは言うまでもないことです。しかし実際には、そうした同じ思惑をもつ国家同士の衝突なわけで、そんな都合の良い話が(平和的手段では)実現するわけがない。したがって必要なのは、自国の利益(正しさ)を主張しながら、相手の譲歩を引き出す妥協点を探ることが戦略として重要になってくるのでしょう。外交とは、積極的に妥協の道を探ることと言い換えてもいい。


内政問題でなければ何だというのだ - 非国民通信

 時に外交は、失敗した方が国内的には賞賛されることがあります。つまり外交上の成功とは本来なら相手国との合意であり軋轢の解消であるはずですが、むしろこれを快く思わない人が多い社会では逆になるわけです。相手国との関係を破綻させ、摩擦をより大きくした方が国内的には評価されるのですね。「連盟よさらば!」と国連を脱退した松岡洋右は英雄として当時の日本では大絶賛されました。その精神は、現代にも脈々と受け継がれているように思います。(…)政府が国民の支持を取り付ける上で求められるのは、外交の場面でいかなる成果を上げることなのでしょう?


結局のところ、「毅然とした態度」なるものを貫く姿こそが国内的にはもっとも重視されていると言わざるをえません。「国交断絶も辞さない」とかまで行くともはやネタ(誰が得するの?)でしかないですが、そこまで行かずとも、自国にとって何が得で、何を優先すべきかほとんど考慮していない明快な主張の方が、人々の支持を集めるわけですよね。妥協しないことの方が大事!みたいな。



いまの日本は特に、長らく続いてきた「決められない国」呪縛への反動によって、とにかく改革、とにかく削減、とにかく決断の圧力がすさまじい。「曖昧にしておく」という外交上不可欠なカードは、つねに弱腰外交として批判される立場にあるのだけど、今は左右問わず「毅然とした態度」を支持しておくのが圧倒的に(国内的に)安全な選択になっているのでしょう。


そういえば、経済成長云々では内向き外交を批判する実業家たちが、こうした場面だと「毅然とした態度」外交を積極的に主張する姿も見慣れた光景ですよね。ハハ・・・。

本日の「不退転の覚悟」

そうした視点からみれば、野田首相の発言は日本側の見解は明言した上で、内外に「冷静になろうぜ」と呼びかける意図があった、とは思います。自国民のプライドを最大限尊重するタテマエ上の「毅然とした態度」と、相手国にも言いたいことは「適度に」言わせておく。両国ともに、相手が本気で乗ってきたら困るのです*1
これでいいじゃん、とか僕は思うんですけど。


野田首相会見要旨|時事ドットコム

 竹島は歴史的にも国際法上も日本の領土であることは何の疑いもない。韓国は(1952年に当時の李承晩大統領が洋上に)不法な「李承晩ライン」を一方的に設定し、力をもって不法占拠を開始した。
 竹島の問題は歴史認識の文脈で論じるべき問題ではない。戦後の韓国政府による一方的な占拠という行為が、国際社会の法と正義にかなうのかという問題だ。韓国側にも言い分はあるだろうが、自国の考える法と正義を一方的に訴えるだけでは建設的な議論は進まない。国際司法裁判所の法廷で議論を戦わせ、決着をつけるのが王道だ。
 尖閣諸島については日本固有の領土であることに疑いはない。領有権の問題は存在しない。中国が領有権を主張し始めたのは、東シナ海に石油埋蔵の可能性が指摘された1970年代以降だ。
 北方領土問題は全国民の問題だ。法と正義の原則を基礎として、静かな環境の下でロシアと交渉を進めていく。
 いたずらに国内の強硬な世論をあおって事態がエスカレートすることはいずれの国の利益にもならない。当事者同士が大局を見据え、決して冷静さを失わないということも欠かせない。(日本と韓国は)主張に違いはあっても、互いに冷静に対応すべきだ。基本的な外交儀礼まで失するような言動や行動は互いを傷つけ合うだけで、建設的な結果を生み出さない。韓国側の思慮深く慎重な対応を期待してやまない。

*1:その意味において、韓国大統領の天皇批判に対しては、「ちょっとうちの国民刺激しないでよ!」と「ルール違反」を怒っていいかもしんないですね。