パーソナルスペースについて──混み合い、匿名性、身体境界


IMGP2363 / Wry2010


立ちションできない男の子──男子トイレという恐怖空間


思いのほか多くのひとに読まれた上記の記事。自分にとって長年のテーマであるだけに関心を持ってもらえたことが嬉しかったし、共感的な反応が多かったこともまた予想外だった。ところで、いくつか寄せられたコメントには「パーソナルスペース」に言及しているものが見られた。パーソナルスペースというと、心理雑学的に知っている程度でありながら、なんとなくそれで満足してしまうかんじのネタだったのだけど、よい機会なのでちょっと調べてみることに。


パーソナルスペースという考え方は、文化人類学エドワード・ホールが提唱したプロクセミックス(Proxemics)という、人間の空間利用にかんする理論に由来する。ホールはまず野生動物のなわばり行動に着目した。動物たちは、自分と同種あるいは異種の動物ごとに異なる距離を使い分けてなわばりを管理し、固有の社会を形成している。それを人間の社会生活の理解へ応用できるのではないかと考えたのだ。


ぼくたちは身体の表面(つまり皮膚)が自分と外界の境界だと素朴に認識している。ところがじっさいには、なわばりとしての「自己の領域」が身体の外側にまで広がっているのである。ホールによれば、人間は、「多種多様の情報を与える、一連の伸縮する場によって囲まれて」おり、いうなればそれは「習得された情況的パーソナリティ」とでもいえるものである*1。彼はなわばりとしての空間をいくつかの段階──密接距離、個体距離、社会距離、公衆距離(そのおのおのの中に遠近の相がある)──に分け、シチュエーションごとに適した距離の使い方があることを理論化した。そのうえで、人間と動物のちがいについて、次のようにいう。

人間と動物の主なちがいの一つは、人間が自分の延長物(エクステンション)を発達させることによって自分自身を家畜化したことと、それにつれて自分の感覚を遮断して、より狭い空間により多くの人間が住めるようにしたことである。

『かくれた次元』p.254


野生動物には「逃走距離」という身を守るための最小領域の境界が存在するが、当然家畜として扱う際には人間が近寄っても逃げたり暴れないようにする必要がある。「自分自身を家畜化」するとはそのような意味だ。そして人間の場合、目隠しなどの道具や建築構造に工夫をこらし、あるいは特定の心理状態を意図的につくりだすことで「自分の感覚を遮断」し、本来耐えられうるよりも遥かに密集した状態の社会環境に適応している、というのが彼の主張である。


ただし、大幅に縮小された逃走距離の空間といえども完全に消滅してしまうわけではない。「人間が互いに怖れあうようになると、恐怖が逃走反応を復活させ、爆発的に空間を欲するようになる。恐怖プラス混みあいが、恐慌をひきおこす(p.255)」と警告するホールの言葉は見逃せない。


空間の使い方によって人間の心理は大きな影響を受ける。と同時に、心理状態が空間認識そのものを変化させる。パーソナリティとしての空間はけっして固定的なものではなく、つねに変化する性質のものである。もちろんその程度には個人差がある。そして重要と思われるのは、空間のあり方は各人を取り巻く文化によって強く規定されるということだ*2。逆にいえば、特定の状況下で不快や心理的不安を生じるケースを考える場合、広い意味での文化や習慣について考えることが重要なのではないか。冒頭に挙げたエントリーはそのような意図をもって書かれた考察──「なぜ小便器周辺では、パーソナルスペースが極度に拡大されるのか」──でもあった。


ざっと調べた限り、ホール自身はパーソナルスペースという言い方をしていないようなのだけど、心理学の領域で定着した呼称と考えればよいだろうか。こちらの本では、より一般になじみ深い、心理学的な立場からの説明がなされており、興味深い事例が数多く紹介されている。なかでも男子トイレでの観察実験は題材としてビンゴというかんじ。


それはこういう実験内容だ。小便器が三つある男子トイレで、そのうちのひとつに「故障中」の張り紙をしブラシを突っ込んでおく。利用可能なふたつの小便器のうち、片方の前に被験者男性が立った直後、空いている小便器の前にさくらの男性が立つ。ようするに、(1)小便器をひとつ挟んで二人が並ぶ場合と、(2)すぐ隣に並んでしまう状況を意図的に作り出すわけだ。そのうえで観察者は個室にこっそり隠れ、被験者の尿の音に耳を澄まし、排尿が始まるまでの時間と排尿そのものに要した時間を計測する……。


この実験から得られた平均によれば、隣合わせのケースでは、「排尿が始まるまで時間がかかり、排尿そのものに要した時間は短くなっている」傾向が明らかになったそう。著者の渋谷は、「未使用の便器が暗黙の緩衝帯の働きをしている」と分析しているが*3、これはぼく自身(そしておそらく多くの男性たち)の経験的感覚とも一致する。また、被験者とさくらの男性が顔見知りである場合にはこの傾向がとりわけ顕著だという。立ちションに苦手意識を持つぼくなどは、小便器に立ってから排尿が始まるまでの間に、別の男性に並ばれてしまったとき、「どうせ知らない人だ。見ず知らずのおっさん、どうでもいい存在だ」と暗示をかけることさえじっさいにある。


匿名性とパーソナルスペースの関係については、別の例も紹介されている。たとえば、電話ボックスに極限まで人間を詰め込むというあるテレビ番組での実験で、リハーサル時にきっちり詰め込めた人数を本番で再現しようとしたところ、どうしてもボックスのドアを閉めることができなかった。実験者たちは当初、互いに見知らぬ者同士だったが、リハーサルから本番までの間に知り合い同士になってしまい、相手の体を乱暴に押したり、所かまわず触ったりすることができなくなってしまった、というのである。「匿名を装うことによって、双方のパーソナル・スペースを限りなく縮小させることができる」ことが示唆された実験といえるし、満員電車などを思い起こせば納得がいく話に思える。


ほかでは「身体像境界」という概念も興味深い。たとえば、ある種の統合失調症患者は自己と外部世界の境界が曖昧であるために、自分のすぐ横を車が抜き去っていくと、まるで自分の内臓が引き潰されたような感覚をもつという報告や、あるいは、「精神分裂病の女性は、派手なチェック模様の洋服を着ることで自分の身体像境界を堅牢なものにしようとする(p.167)」といった傾向性が紹介されている。孫引きになるけど、サイモン・フィッシャーもまた同じ問題を『からだの意識』のなかで語っていた。

かつて興奮した精神分裂病者をおとなしくさせるために好んで使われた方法のひとつは、患者をぬれたシーツできっちりと包んでしまうことであった。患者は、湿った袋のようになった容器の中に入れられて、動きがとれなくなる。このやり方を非人間的とみなした者もいたが、他の者はそれが重症の「統制の利かなくなった」精神疾患者にとっては救いである、との感を強くしたのである。(……)それは身体の壁の代用品になったのである。


われわれは誰でも、何かの危機を抱えて抱えているときに、暖かい風呂にすっぽりとつかると、湯がすっかり自分を取り囲み、温かい皮膚の感覚で心が落ちつき、安心を得ることを知っている。親は、子供がひどいかんしゃくを起こすと、自分の身体にしっかりと抱き締めることがよくあるが、直観的に、似たようなことをしているのである。すなわち親は、自分の身体を子供に与えて、子供が自分では統制できないでいるその外縁を強化してやっているのである。(S.フィッシャー『からだの意識』)

鷲田清一『モードの迷宮』p.71


この著書のなかで鷲田はSMファッションを題材にして、「生理そのもの」の露出、「身体の境界の侵犯」について言及しているが、このあたりの問題まで考えてみる必要があるかもしんない。と、漠然と思いはじめているのであった。

*1:『かくれた次元』p.163

*2:たとえば、西洋と日本と中東地域では空間感覚がまったく異なり、このことが公共空間にたいするスタンスの違いをも生み出している。

*3:『人と人との快適距離』p.14