堕落と環境について


ニーチェに関する講義をまとめながら、「堕落」ってなんだろかーとふと考えた。


僕はここ1年ほど、少額のネット収入を除いて、ほとんど収入のない生活を送っている。ニートとみなしていただいてなんら差し支えない状態。秋頃からまた仕事を再開しようとは思っているから、サバティカルみたいなスタンスの方が近いのかもしれない。まあ細かいことはどうだってよい。

ただ今回の休みは結構長かったなあという感じ*1。少なくとも東京に住んでいたなら、もう少し休みは短かった気がする。現時点の僕にとって、一番仕事がしやすい場所はやはり東京だ。いまの生活を変えるタイミングで、またしばらく東京で暮らすことになるのだろう。元々そういう見込みで来た北海道ではあったし。


正直いうと、無収入状態が続いていることに最近すこしナーバスになってた。仕事再開の目処を決めたのもそうした精神的理由が大きい。「このまま堕落した生活を続けていて良いんだろうか?」みたいな。深刻なのか単に常識的習慣として湧いた問いなのか自分でもよく分からないけど、とにかくそんな感情がやってきたの。でもさらに思ったんだよね。「自分は果たしていま堕落しているだろうか?」と。誰かのお金を頼っているわけでもない。将来の収入源の候補にと、ネットビジネスの作業も進めている(実るかはともかく)。というかそんな消極的理由を挙げずとも、こちらへ来たことで得たものはむしろ大きいわけで。


まず学ぶ楽しさを発見できた。最近は時間さえあれば大学図書館へ通っているのだけど、これが本当に楽しい。アラサーにしてついに図書館の魅力を知ったのだ!プログラムを組むのも楽しいし、お金になるのはそっちだろうけど、僕がもっとも夢中になれるものは学問だったのかもしれない。そんな出会いに恵まれた。それからパートナーとの関係も確実に良くなった。同棲を始めて9年の間、ずっと解消できずにいた「ズレ」にもじっくり時間をかけて取り組むことができた。いま一緒に居られる毎日が楽しい。

ほれ〜〜このとおりかなり充実しているはずで、実際満足もしている。――にも関わらず、自身に「堕落」を感じてしまった。なんなのこれ!って感じである。それは「無収入」ゆえに起こる不労行為への罪悪感なのだろうけど、改めて収入という要素の決定的な大きさを実感している次第。裏を返すと、収入さえある程度安定していれば(賃労働に就いてさえいれば)、それなりの充実感を持っていられることが明らかになった、とも言えるわけだし。

「いまの満足」で満足してよいのか?

ニーチェは生の欲望を直視しない態度を指して、デカダン(=堕落した存在)であると断罪した。道徳にしろ常識にしろ、それらが展開する場においては、僕たちが本当にしたいことが善悪の基準によって覆い隠されているというのだ。もちろん他者と共存していく上でなんらかの社会規範が必要ではある。ただそこで肝要なのは、自分が「何を諦めさせられているか」を自覚しておくことだろう。


人は環境に適応する生き物だから、自明(に見える)の前提条件――労働、家族、夢etcにまつわる常識の類――はひとまず受け入れてしまう。実はそこで、「よいこと」を望み「いけないこと」を望まなくなるような精神的支配が起こっている。これは道徳に限った話でもない。たとえば、いまどきの若者はかつてと比べて消費に対する欲望が減じていると言われる件を考えてみてもいい。「物質的な豊かさから心の豊かさへ」というのは後付け的な理由であって、単に消費を謳歌する楽しさを追及できる人が少なくなっただけだ、という解釈だって可能だろう。そしてそれは社会全体が貧しくなったことに起因する現象だ。たしかに僕たち以下の世代は、かつての若者と比べて消費的娯楽を望まなくなった。ただその「望まなくなった」こと自体が、実は環境によってそうさせられている(せざるを得ない)側面がある。


僕自身のごく身近なことにも十分適用できる。昨年東京に居たころ、僕はやはりそれなりの充実感を持っていた。収入面の不安はずっと少なかったし、居酒屋やファミレスで友人とグダグダやる生活がとても好きだった。一方、いまの生活にはそのどちらもない。そしてそれでも満足している。――でも当然、あの頃とは「違った意味で」だ。北海道にいる現時点の僕にとっては、気楽に再開できる職場もなければ、知人もほぼいない。それがいま前提とすべき環境である。僕はすっかり適応し、それら抜きで満たされるように「させられている」。


現にある環境をひとまず前提として満足することは、いうまでもなく楽しく生きるために必要なスキルだ。いわゆる「自分が変わればセカイが変わる」のコアメッセージもそこにある。一方で、環境を変えることもまた、いや。自身の適応能力を磨くこと以上に重要な視点であるに違いない。なにしろ自分の欲望の持ち方そのものに影響を与える要因なのだから。しかし環境は自力で変えられる範囲を超えたものでもあり、そこに難しさがある。前者のライフハック的行動ばかりが支持を集める背景にも、そうした理由があるだろう。

ただ重要と思われるのは、欲望の形がみなそれぞれ異なるように「堕落」が指し示すイメージもひとりひとり違うということである。他人が語る「堕落」像を勝手に当てはめながら、「自分は大丈夫だ」と満足し、あるいは「ダメ人間です(笑)」などと自嘲している場合ではない。それだけはたしかだ。

*1:あくまでも収入という観点だけのお話として