哲学史における生命概念('10) 第12回 ニーチェの思想(講義メモ)
ニーチェの生哲学(1)力への意志
ヘーゲルの体系を最後として、哲学は人文科学の一領域に閉じこもることになる。それ以降、哲学における生命概念は、物理学に指導された近代科学への反発という動機を伴って展開されることになる。その代表的例としてニーチェが扱われる。
歴史背景
19世紀後半、経験科学が哲学の領域を次々と奪っていた。
その頃登場した新カント派の哲学は、カントの批判哲学が持つ科学の基礎付けの可能性を根拠とした、哲学の自己主張的試みであったといえる。新カント派の西南ドイツ学派 W.ヴィンデルバントは、文化科学や価値哲学(一回限りの歴史的・文化的事象に「価値」を介在させて理解することを目指す)の成立根拠を基礎づけ、後世の歴史科学・社会科学の方法論争に影響を及ぼした。自然科学(事象を普遍的法則のもとに包摂することを目指す)とは異なるアプローチによる事象把握を目指したのである。
他方、そうした歴史的文脈においてニーチェは全くタイプの異なる哲学者として登場した。
ニーチェ
詩人哲学者とも呼ばれ、文学的アフォリズムを多用したスタイルが特徴。
『この人を見よ』
最晩年に書かれた自伝的作品。ニーチェにおいては、ルサンチマン=生の本来の要求を開放・充足することの断念に向けられる感情であり、ルサンチマンに囚われる人物・思想こそがデカダン(堕落した存在)であるとされる。
ニーチェは自身について、近代文明同様、その内部に居る自分もまたデカダンであることを認めた上で、生命力の上昇/下降の両方を知る自分は、病んでいることを「健康」な高み(ルサンチマンの感情から免れた状態)から見下ろすこともできると誇る。
なぜわたしはこんなに賢明なのか
なぜわたしはこんなに利発なのか
なぜわたしはこんなによい本を書くのか
なぜわたしは一個の運命であるのか
プラトンにせよキリスト教道徳にせよ、身体の欲望の満足を悪しきこととして断罪してきた。それは生に対する敵対であり、価値の転倒に他ならないとニーチェは厳しく批判する。
『反キリスト者』
ニーチェ自身はプロテスタントの牧師の息子で、敬虔なキリスト教徒の家庭に育った。むしろキリスト教道徳に対して徹底的に誠実であろうとした結果*1、キリスト教道徳自身のもつ反自然的性格を糾弾するに至る。ただ本書おいて興味深いのは、キリスト教を激烈に批判した上で、イエスの救済を試みる点である。
キリスト教はルサンチマンに支配され、他者への攻撃的性格を持つとしてニーチェは「神」を否定した。他方、仏教もまた現世を否定する(ニヒリズムに支配されている)点では同じくデカダンであるが、一切の煩悩を解脱し善悪の彼岸に立つことのみを願う点に誠実さを見出した。そしてイエスこそは仏教的思想をもった人物であった、と彼は主張する。
イエスにとって「天国」とは心の状態であって、死後の世界などではない。「神の国」とは日毎の経験に属するものであって、未来において待望されるものではない。報復・罰・審判について語りだしたのは、イエスの死を前に動揺した弟子たちであった。それは誤解にもとづく解釈、いわばでっちあげである。そしてパウロこそが最大の扇動者(僧侶)に他ならない。
――このようにして「生の敵対者」としてのキリスト教の教義は打ち立てられた。そうニーチェは語る。
『反時代的考察』
徹底的に「生」が価値判断の尺度となるニーチェにとって、「生」とはどのようなものか?
歴史の客観的研究が自明の真理であるという類の考えを退け、歴史を学ぶことが生にいかに奉仕することになるか、という観点から歴史を捉え返そうとした。
- 記念碑的歴史
- 現実において戦っている者が、戦いの根拠となるような(現在ではなく過去によって)典型・模範を提供するための歴史。
- 骨董的歴史
- 自らの生い立ちや先祖の伝来を保存し、敬愛する者にとっての歴史。自己自身の存在への感謝の念を表明する態度。
- 批判的歴史
- 何らかの弱点・不正・暴力を伴わざるを得ない過去の現実を断罪することにより、現在の自己を正当化しようとする者にとっての歴史。
歴史はいずれの形であれ、生を傍観することで得られた客観的知識の増加によって真実性が保障される(経験科学的な立場)ようなものでは「なく」、現在を生き抜く諸個人の生の枠組みの内で捉えられるものである。「客観的真理」の追求など欺瞞でしかなく、徹底的に(各個人の)生の観点に立つほかはない。
⇒パースペクティヴィズムへと発展。
『力への意志』
ニーチェの死後にまとめられた遺稿*2。ニーチェの「力への意志」論には、いわゆる機械論と目的論の対抗関係が見て取れる。機械論的自然解釈を支える力(因果性、数量化、法則、必然性)もまた意識の側のパースペクティヴによって作り出されるものに過ぎない。本来、自然は混沌(カオス)であり、意識の側の要請によって見出される秩序(コスモス)は、ニーチェにとっていわば虚構でしかなかった。
一方で彼は目的論についても否定を行う。行為は必ずしも目的を原因として引き起こされるものとはいえず、「目的‐手段」の枠組みを適用することによって、現実の大部分が切り捨てられてしまうことになるとした。同じ観点から、ダーウィンの進化論をも批判する。生の観点に立てば、個体の存在は「有用性」に還元されるようなものではないし、もしそうならば、生は外的環境に従属するものでしかありえない。「力への意志」とはより力強くなろうと意志することであり、自己保存に終始するものではない。世界を支配し、より以上のものとなろうとするものだ、と。
生成が過小なのではなく、存在の方こそが過小である(ヘラクレイトスに遡ることができる考え方)*3。
『ツァラトゥストラはかく語りき』
「超人」=ニヒリズムをニヒリズムとして受け入れながら、自らの生を肯定し、永遠回帰(全ての善きこと・愚行・不幸の全てがまた繰り返す)をも受容する者。人の理想的姿。高い質の生を求める思想であり、精神的帰属主義が見て取れる。
「超人」へと向かい人の歩みを三つの段階に喩える。
- ラクダ
- 重い荷物を背負い、それに耐えながら歩む忍従の段階。
- 獅子
- 自由を奪い取り、世界の主人公になろうとする反抗の段階。
- 幼児
- 無邪気でなにごとも簡単に忘却し、戯れの内で然りという段階。
ニーチェ哲学の暫定的まとめ
二分するニーチェ評価。
- 肯定:良識や道徳の裏に潜む欺瞞を暴く思想である
- 否定:国家による暴力、独裁政治擁護の思想である
19世紀末の帝国主義の時代。地球全体をその支配下とすべく進行してきた西洋文化であったが、その内部に巨大な空洞(形骸化・衆愚化)を抱えてしまっているという意識を多くの哲学者や芸術家たちが共有していた。その問題意識を極端な形で表現したのがニーチェであったことは見逃せない。