哲学への誘い('08) 第12回 森鴎外と小林秀雄(講義メモ)

第3部 文学と哲学(2)日本近代文学と哲学

森鴎外の「空車」という概念や小林秀雄ベルグソン解釈を通じて、日本近代において、哲学を専門とするわけではなかった人々の哲学的発言について考える。


【キーワード】翻訳文化


日本の文学において哲学がどのように根付いていたかを検討する。

森鴎外

医学を学ぶためにドイツに留学した際、西洋哲学にも親しむ。当時、日本では「美学」を巡る論争が活発で、鴎外もまた論争に参戦。E.V.ハルトマンを参照した*1

『妄想』

主人公は鴎外自身に重なる老人という設定。彼が繰り広げる哲学的想念が中心の作品。若年においてドイツに医学留学し、充実した成果をあげるが、なお満たされない心の飢えを抱える。自分の生を満たすものとはなにかを巡る思索。この主人公もハルトマンの著作を読み進めている。「幸福を人生の目的とすることの不可能さを立証する」という悲観主義(ペシミズム)の思想が展開される。


ハルトマンは錯迷の三つの時期を立てる。

  • 1)現世における幸福の段階
    • 若さ・健康・恋愛・友情・名誉など。だがこれらはむしろ人間に不幸をもたらすものでしかない。
  • 2)幸福を死後に求める段階
    • 人間の不滅を前提とするほかなく無意味である。
  • 3)幸福を個人を超えた発展・進化に求める段階
    • 世界はどんなに発展しようとも、個人の不幸はなくならず救いにならない。


主人公はこれらの思想に興味を持ち、ショーペンハウアーの厭世哲学、さらにはニーチェの「力への意志」論・永遠回帰思想へと進んでゆく。自然科学(医学)を学ぶ人間には相応しからぬ非合理主義、進歩賞賛に対する懐疑の思想が認められる。

森鴎外 妄想 - 青空文庫

『かのように』

日本古代史を研究する若き歴史家が主人公。神話を史実とする皇国史観には疑問を呈しつつ、天皇制を擁護する自らの立場を傍観者的に擁護する。大逆事件の頃に書かれる。鴎外的な傍観者の哲学がよく表れた作品。

森鴎外 かのように - 青空文庫

『空車(むなぐるま)』

『妄想』の6年後(当時55歳)に書かれた短文。一見役に立たないもの、有用性に還元されないものの独特の価値を「空車」という概念に喩える。そこには無用なものを切り捨てる合理主義的思想――自動車産業の発展に象徴される――に対する皮肉が感じられる。

森鴎外 空車 - 青空文庫

遺書

森 林太郎トシテ 死セント欲ス

小林秀雄

本居宣長―講義・質疑応答 (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 3巻)

初期のランボー研究、中期のドストエフスキー研究などの文学を扱った作品のほか、音楽家や画家を論じることで自己表現が達成されている点が興味深い。マルクス主義、科学実証主義に代表される客観・理論優勢の風潮を「近代精神の病理」だとして批判し、徹底した主観・実感に基づく観察により解明を試みた。

『モオツァルト』

「涙の追いつけない悲しみよって明らかにされる真実」(=理屈によっては追いつけない真実)とモーツァルトの作品を評し、この真実の前で理論で武装した自我の欺瞞が暴きだされることを主張。客観的・理論的態度を自明視する近代的主観性への批判という文脈の中でモーツァルト論を展開した。

A.ランボー

芸術家にとって想像にともなう無意識という契機は、自己の想像が参与するための必然の契機という位置を占めている。そしてこの無意識を媒介として、想像過程の円環が閉ざされる。しかしランボーにおいては、その円環が円満に閉ざされるということはなく、円環の内に作者が満足するなどということは全く拒否されている、と小林はいう。観想の場に安らぐのではなく、苛烈な実践に身をおくという小林の思想がこの段階にして現れている。こうした反理論・反マルクス主義を標榜する小林の立ち位置について、政治学者・丸山眞男は近代日本言論界における「実感信仰」*2と厳しく批判した。


ともあれ。以上のような小林の哲学的思想を支えたのがA.ベルクソンであった。

『感想』

2年以上に渡り雑誌連載されたベルクソン論(未完)。


ベルクソンの思想は以下のように要約される。

  • 「反合理主義」、「反科学主義」、「生の哲学」。
  • 直感を重視し、理論以前の内的経験の復権を主張。
  • 時間を「純粋持続」として捉え、時間の空間化・数量化への批判を行った*3


こうしたベルクソン的哲学を土台に、文学をつうじて小林独自の思想を積み上げたものとみられる。ただしベルクソンの中にも新たな科学論への展開可能性があるにも関わらず、小林はあくまでも直感や常識の復権という思想に留まったとの見方もできる。彼の文体の魅力そのものも、読者の知的世界を限定されたものに閉ざしてしまう危険性がたしかにある。一方で、小林秀雄の反語的・逆説的文体をつうじて示される陰影ある人間把握というものを再評価すべき時代状況にあることも、また事実であろう。

ゴッホの手紙』

 悪条件とは何か。
 文学は翻訳で読み、音楽はレコードで聞き、絵は複製で見る。誰も彼もが、そうして来たのだ。少くとも、凡そ近代芸術に関する僕等の最初の開眼は、そういう経験に頼ってなされたのである。翻訳文化という軽蔑的な言葉が屡々(しばしば)人の口に上る。尤も(もっとも)な言い分であるが、尤もも過ぎれば嘘になる。近代の日本文化が翻訳文化であるという事と、僕らの喜びも悲しみもその中にしかあり得なかったし、現在も未だないという事とは違うのである。どの様な事態であれ、文化の現実の事態というものは、僕等にとって問題であり課題であるより先きに、僕らが生きる為に、あれこれの退っ引きならぬ形で与えられた食糧である。誰も、或る一種名伏し難いものを糧として生きて来たのであって、翻訳文化という様な一観念を食って生きて来たわけではない。

*1:講義では「ハルトマンの『美学』を翻訳」と紹介されているが、『美学』はN.ハルトマンの作品と思われる。講師の勘違い?

*2:他方、マルクス主義に象徴される(西洋由来の)理論の絶対的正当性を妄信する立場を「理論信仰」として対置された。

*3:G.ドゥルーズベルクソンの「持続」概念を継承し、「差異の哲学」を展開している。