現代哲学への挑戦('11) 第14回 近代哲学の再検討(講義メモ)

近代哲学の再検討

近代哲学と、その復興をめざした現代哲学は、ヒューマニズムの哲学であったが、いまやそうしたイデオロギーは崩壊している。人間という概念を構成していた心身の分離、こころとからだの関係を再考し、科学からも排除されてきた「もの」の概念について考察する。


【キーワード】真理・健康と病気・物体と力・ニーチェハイデガー・思考・こころとからだ・メルロ=ポンティ

近代〜現代における哲学の変遷(前回までの総括)

19世紀半ば、資本主義的生活様式や現代的な自然科学が確立。自然科学はエリート学問から、実証主義的手法による大衆化が起こる。その中で、人間も生物の一種として捉える機械論的進化論が成立する。哲学は学問の一分野(講談哲学)へと縮小し、非哲学の領域でさまざまな理論――マルクスの経済学、フロイト精神分析ニーチェニヒリズムソシュール構造主義etc――が展開されるようになる。しかしこうした思想理論も社会や人間像を説明しきるものではなかった。


20世紀前半にはフランクフルト学派が登場し、マルクスフロイトの思想を統合的に検討。同じころ、ドルゥーズとガタリニーチェ思想の影響のもとでマルクスフロイトを結びつけて社会と人間を論じた。正統派哲学の領域においては、ベルクソンハイデガーといった現代哲学者が登場する。科学の諸成果を根本的に批判、それらをも基礎付ける壮大な体系の構築――デカルトが行なったのと同様なポジションで科学と人間を論じること――を目指した。その中で、人間の精神を再確立しようとする「実存主義」が一時的に大きな高まりを見せるが、20世紀半ばにはその限界も次第にはっきりとして来る。


ソシュール構造主義は近代科学とは異なった新しい人文学とみなされ、フランスではその影響のもと、多様な主題にわたって華々しい議論が展開される。その影響は広く世界中におよぶ(フランス現代思想)。ニーチェ思想の影響をうけたフーコーの生命政治論はひとつの到達点である。現在はそのフランス現代思想という流行現象――宴の後であり、思想のすべてが行き詰まっているかに見える状況にある。

現代における生の哲学

生の哲学は、進化論や自然科学的な知識が社会状況へ広範に介入するようになったことに対する、哲学の側からの積極的な受け止めである。生を最大限に受容しようとする立場のうち、生に関する科学的見解を一切排して意識を中心において捉え直そうと試みたのが「実存主義」であった。しかし実存主義のあとに展開した現代思想においては、もはや近代哲学における中心的主題――自由・平等・理性・主体――を前提とせず、欲望・暴力・監視・逃走といった概念によって、社会や人間を捉え直そうとしてきた。こうした変化は中心的人物の存在しない地滑り的な現象である。


いまものを考えるときに重要なのは、ふたつの主題を混同しないこと。「主体として社会を変革すべきだ」「人生の意味を探求すべきだ」といった近代の延長的発想は、現在の状況では必然的に行き詰まる他ない。複雑で全体が捉えられない、自然と社会と歴史の茫漠とした連続体の中にわれわれは生きている(ポストモダン状況)。それを様々な角度から切断し断面を比較することで、いま人々があえて成そうとしているその意味を明らかにしようとする思索の方向を目指すべきではないか。

アンチ・ヒューマニズム

生の哲学から出発した現代思想の到達点として、フーコーの生命政治論、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』が挙げられる。

生命政治
資本主義という経済体制を前提にしつつ、膨大な量の欲望の暴走を統御しようとする装置。国家が自らを存続させるために機能している(自己目的化)。権力が生命を担保にして――「病気になったら困る」という事実をちらつかせて――、臨床医学的知識を宣伝・強制することにより、人々の理性的判断の前提を形成しようとする。医師や科学者たちはこうした「厚生権力」の尖兵として健康知を人々に浸透させていく。これはあらゆる人を巻き込み、選択の余地のない隷属を推進することと等しい。医学は身体の病気の延長で精神の病気を定義する。臨床医学的知識を受け入れない人は「意見がちがう」のではなく、「病気」なのである。こうして人は、自由で平等で理性的主体(ヒューマニズム)であること剥奪される。

これほどまでに個人の生活に干渉する権力は、これまで宗教以外にはなかった。実際、生命政治は近代が終わり始めたとき、中世の「神学」に相当するものとして出現している*1。現代の「健康」という文化的妄信には、ルネサンス期の天才・芸術家・英雄をモデルにした人物たちの並外れた知性や自由・幸福に対するルサンチマンがあるのようにも見受けられる。


自ら進んで受け入れるタイプの隷属は、ファシズムへと繋がると指摘されている。また生命政治は管理社会論には還元できない。自由という概念の原理的問題に気づかねばならない。自由な主体として人間を捉えるとき、病的とされ排除・監禁されるものとしての人間(ヒューマン)が見えてくるのである。


ルネサンス期の人文学、20世紀の人間愛に代表されるように、ヒューマニズムには色々なタイプがある(初期ハイデガー)。ゆえに、哲学はひとつのヒューマニズムであってはならない(サルトル)。ポストモダン状況で生き延びる哲学は、アンチ・ヒューマニズム――近代のヒューマニズムから離れるという困難な努力――の立場ではないか。「人間にならなければならない」という西洋近代の普遍主義は終わったのであり、それぞれの文化でそれぞれに自分を捉えてよい。ドゥルーズ=ガタリの言葉でいえば、いかにして「器官なき身体」を獲得するか――フロムのいう「自由からの逃走」をあえて果たし、主体という名のパラノイアになってファシズムに導くことなしに、生を享受する状態を待ち受けるか。それこそが哲学の問うべきことである。

これからの哲学の使命

人類は知らないこと、知りえないことに対して「神」の名を与え、分かるもののように扱ってきた。神を殺したのは科学を信仰の対象にした大衆であり、俗流実証主義や大衆功利主義であった(ウェーバー)。だが、神という絶対的起源を否定するならば、人間は自らの存在の偶然性や無意味さに耐えなければならない(シェーラー)。


ハイデガーのいう「存在忘却の歴史」とは、起源の捏造を意味するものではないか。彼はニーチェの古代回帰に習いながらも、ニーチェを「最後の形而上学者」と呼び、死を宿命とする自覚から人々の思考を逸らしたとみなした。翻って後期のハイデガーは、「存在」の上に家を建てて住まうことを進めている。機械的なものと人間的なものの調和した世界での生き方こそを探求すべきではないか。哲学は生活の指針を与えるようなものであるべきである。


この講義の結論として以降述べていきたいことは、人間でありながら人間を超えていくというヒロイズムではなく、生における受動性を知る思考である。

哲学の原点回帰へ

真に起源が問題になるのは人生においてである。宗教がその問いを担えないとき、哲学がその指針を示すべきではないか。哲学は政治であってはならない。哲学とは真理を代理するエクリチュール、聖書の如きものではなく、それぞれが自分の思考を超えようとする時に必要とされるパロールである。パロールの威力は、問いと答えの関係が次のどのような問いを生み出すかについての隠された思考、語る言葉とすでに知っているものとの関係を明確にしようとする思考(弁証法)に依拠する。ソクラテスの魂の産婆術である。それは真理を定義しようとしているのではないから、どんな結論が引き出されてもよく、世間の常識から逸脱し狂気じみたものになってもよい。

こうした古い哲学に対して、近代哲学は「なにが真理とされるか」の政治の歴史であったといえる。それがやがて「すべての起源は捏造である」という言説が勝利をおさる。大衆がそれぞれ好き勝手に起源を設定できるようになったポストモダン状況に対して、モダンの前衛としての現代思想はむしろ歴史的言説は無効だとして大衆に対峙するようになった。メルロ=ポンティが「非哲学」と規定した現代の思想は、ローティの言うように、大学とは別の場所で哲学史の断片を自在に組み合わせて使えるエクリチュールを製造する文化批評にとって変わられつつある。もう一度ソクラテス伝統に戻り、現在の状況の偽問題を暴露し、もっと切実な問題を明らかにしてゆくべきではないか。

デカルト近代哲学における問題点の再検討

「心が健康か病気かを規定するのは、社会生活の標準的生活のあり方である」とフロイトがいうように、人が統合した思考と行動をもつことは社会の要請に拠るのであり、人はもとより統合的主体ではない。本来的には分裂した存在であり、わたしの身体、わたしの生は、わたしの思考からは思うままにならないものである。「わたし」というわたしの中のひとつの実践は、近代の厳しい社会的要求に都合の良いように仕向けられ、形成されてきた。しかし身体経験そのものの中に、わたしの身体と他者の身体、および世界の中にさまざまな「もの」が存在する――わたしもまた「もの」のひとつである――という体験や、歴史として理解される以前の「生の歴史」があるはずである。

デカルトが主題としてきた、心身の分離とわたしの思考によるその統合ではなく、そのさらに徹底した分解・分裂・分離を行なってそこに「もの」を見出すべきではないか。次回はこの「もの」について詳細に検討する。

*1:中世のスコラ哲学は、神の存在と教会の真理を前提にして、それを否定しない立場で哲学的探求がなされた。その伝統を乗り越えたのが近代哲学であった。