近代哲学の人間像('12) 第14回 マックス・ウェーバーと社会学(講義メモ)

マックス・ウェーバー社会学

資本主義を解明するのに、ウェーバーマルクスとは異なった方法を用いた。それを、彼の宗教社会学に見るとともに、彼の社会学のもう一つの柱である「支配の社会学」の検討も行う。その延長線上で、パーソンズルーマン社会学の検討も行うことによって、社会学への哲学的アプローチの道を探る。


【キーワード】プロテスタンティズム、理解社会学、システム論、オートポイエーシス

宗教社会学

マックス・ウェーバーは20世紀初頭に活躍した社会学者。新カント派の影響を受けた独自の哲学的提言も展開している。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

資本主義成立の源泉として、禁欲プロテスタンティズム*1の倫理をあげることができると主張。その前提としてまず、職業意識の高さがカルヴィン派と関連があることを意識調査結果を示し、またベンジャミン・フランクリンの勤勉と倹約を説いた文章に単なる蓄財の勧めということを超えた倫理(エートス=不断の心構え)の表明が認められることを挙げている。その際、禁欲プロテスタンティズムにおける「予定説」と呼ばれる教説に注目する。

予定説
新約聖書のパオロのロマ書、8章に由来。人間の魂が死後、天国に行けるかは否かは神によってあらかじめ決定されており、個人の努力では変えようがなく、その神の決定内容を知ることすらできない、とする考え方。そこから、せめて間接的な証拠を得たいとする願望が生じ、自分の信仰や生活が救いに値するものであるかを検証するという方向へ思想は展開する。


こうした思想が世俗化されていったとき、職業生活での自分の行い(成功)を間接的証拠とするという考え方に変わってくるとウェーバーは考えた。彼は、ルターの聖書解釈をもとに、世俗の職業労働が宗教的裏づけを持つ*2ものであると指摘している。すなわち、職業労働の遂行が単なる拝金主義から行なわれる以上のものであるがゆえにこそ、旧体制を覆し、信教の自由をはじめとした様々の自由の保障を伴う資本主義が確立することもあり得たのだと主張した*3


資本主義は物質的関心の産物というマルクス的立場と対立し、人間の思想の産物でもあるという考え方が示されている。物質的条件は歴史を動かす動力であることはたしかだが、その歴史の方向を決定する役割を果たすのは思想の方だ、というのがウェーバの主張だった。このように、宗教を教義の内部で扱うのではなく、経済・政治・社会との関係で把握しようとする自らの立場を、彼は「宗教社会学」と名づけている。

『支配の社会学

人間の社会には支配が不可欠であるとし、支配とは権力を持った主人が、自らの配下となる者を使って被支配者を支配するという形を取る。その上でウエーバーは、支配が実効性をもつためには物理的強制力だけでは足らず、被支配者側からの支配に対する正当性の諒解が不可欠であると主張する。正当性の諒解は以下の三つに分類されている。

  • 合法的支配
    • 形式的に正しい手続きに従って定められた制定規則のもとで行なわれる支配。官僚制がその典型で、近代を特徴づける形態。
  • 伝統的支配
    • 昔から存在する秩序と支配権力が神聖であるという信念に基づく支配。家父長制が典型で、前近代の支配形態を特徴付けるもの。天皇制や二世議員など。
  • カリスマ的支配
    • ある個人が天与の資質として特別に持っている能力への被支配者側からの帰依による支配。聖フランシスやヒトラーなど。


なお、ウェーバーは社会科学の方法論として、「没価値性」*4を主張していた点に注目。たとえば、カリスマを持つ人物の善悪は問わず、特別の人格的力にのみ注目するといった態度に示されている。

ウェーバーの方法論

理解社会学

社会学のような文科系学問は、普遍法則の確立を目指す自然科学とは異なって、個別的事象の特有の意味を理解を目指すものである*5。社会事象の解明には、それを担う個人の行為の動機を解釈し、その行為の経過を因果的に理解する手続きを取らねばならない。集団に意味を与えるのは個人の動機である。ウェーバーはそのように考え、『社会学の基礎概念』においては、個人の行為を四つに分類した。

  1. 目的合理的行為
  2. 価値合理的行為
  3. 感情的、情緒的行為
  4. 習慣化して無自覚となってしまった行為


もはや個人の意図には還元できないような集団的現象として立ち現れてくるような社会現象を解釈するためには、目的合理的意図だけに還元するだけでは不十分で、非合理的動機と複雑にからみ合う形で社会をとらえようとする。ウェーバーはこうした自らの立場を「理解社会学」と呼んだ。

ウェーバーは近代における合理主義化はもはや避けがたいと考えていたが、官僚制による支配を一個の機械として捉える見方には、敵対したマルクスと同様、近代社会のうちに物象化の危機を読み取っていたといえる。

社会システム論

社会を実証主義的方法論と個人の主体性の両面からとらえようとしたウェーバーの方法論は、後世に大きな影響を与えた。その系譜のひとつが「社会システム論」――われわれは否応なく社会システムに取り込まれており、自己決定の領域は限定されている。そのような観点からシステム化された社会を把握する理論――である。

パーソンズの「主意主義的社会行為論」

パーソンズは、社会進化論、行動主義といった19世紀後半〜20世紀にかけての代表的社会学の行為論を「実証主義」と呼んで批判し、個人の行為がある目的に適合する手段を選択し行使する際に示される「主意性」(ウェーバーの言葉でいえば「目的合理性」)に注目すべきと主張。「主意主義的行為論」を提示した。彼はこの目的・手段関係の合理性を追求する行為を「功利主義」と名づけるが、そこには「功利主義のジレンマ」と呼ばれる難問が生じるとされる。

  1. いくら目的・手段の合理的結合が追求されたとしても、目的設定がランダム(不確定)のものである限り、社会の結合は保証されない。
  2. この目的設定のランダム性を克服するために、目的を行為の条件となる環境なり遺伝的特質に融合させた場合、目的設定は非主観化されて、また再び実証主義に舞い戻る。


すなわち目的合理的な行為論だけでは、主意主義的社会行為論は維持できない。そこでパーソンズは「規範」という動機によって解決を図る。社会秩序はたしかに事実として存在しているが、それは単に物質的利害関心だけによって支えられるものではない。それを超える規範的動機が必要であり、事実と規範とは単なる対立関係にあるのではないと指摘される。


このような展望を得た後、パーソンズは個人の主意主義的社会行為を社会システムへと組み込む理論を展開している。

ルーマンの社会システム論

ルーマンフッサールの「間主観性」の概念を徹底させ、システム論の形成を試みる。彼によれば、社会システムこそ主体であり、その外部にある自然も、社会システムに属する個人の外面的活動も、さらには個人の内面までも、環境という位置に置かれてしまうと言う。そして社会システムが形成、保持、変動するあり方は、このシステムにとっての環境の複雑性の縮減という原則に従って決定される、とされる。


ルーマン流のシステム論は、現象の背後の「真の世界秩序の存在」への信念などが失われてしまった時代特有の機能主義的概念である。そのような世界においては、目的という概念は「複雑さを縮減する多くの戦略のうちのひとつでしかない」と言われる*6。社会システムは、環境の複雑性縮減の原理によって構成・保持されるが、そのことによってシステム自身は、サブシステム相互の間での機能分化の原則にしたがって複雑化していくのである。ルーマンの言葉では、「機能分化は社会の高度の複雑性を組織可能とする形式である」。

*1:カルヴィン派系のプロテスタンティズムのこと。英語圏ではピューリタニズムとも呼ばれる。

*2:ドイツ語の「職業」を意味するBeruf(ベルーフ)という言葉は、神の呼びかけという意味に由来するとされる。

*3:ただしウェーバーは、プロテスタンティズムの教義のなかに資本主義を肯定・推進する思想があったと主張したわけではない。プロテスタンティズムの予定説によって培われた心のありようのうちに、資本主義を形成する原動力となるもの(=エートス)があったということ。

*4:Wertfreiheit(ヴェルトフライハイト)の訳語。「価値自由」とも訳される。

*5:新カント派の哲学者リッケルトの考え方による。リッケルトウェーバーの先輩にあたる。

*6:ルーマンはさらに、不確定性の縮減という契機も社会システムの構成原理として加えているが、これは、社会制度が「ダブル・コンテンジェンシー(二重の不確定性)」を介して存在するものであるというパーソンズの指摘を受け継いだものである。