哲学史における生命概念('10) 第14回 ベルクソンの生哲学(講義メモ)

ベルクソンの生哲学

ベルクソンの生哲学を概観する。特に、生概念を進化論との関係のもとで扱う。また、ともすれば、反科学的と受け取られがちの生哲学と科学との対話を模索する。


【キーワード】直観、時間、空間、純粋持続、創造的変化、生命の跳躍(エラン・ヴィタール)、エントロピー

アンリ・ベルクソン

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「直感」*1こそが哲学に固有の知であるとし、科学には成しえない、内側から知を求める学問であると主張。ベルクソン自身は決して科学嫌いではないが、近代科学が学問的真理を独占している状況に強く反発した。

『時間と自由』

1888年出版。自由の源泉を時間に求め、従来の等質的時間解釈が批判の対象。ベルクソンによれば、カントの時間解釈は、彼の空間解釈――物質を並存させる形式――と同じものでしかないとされる。「持続」は時間とは全く異なる概念であり、時間を持続として捉えるということは、それぞれの瞬間に特殊的な質をもつものとして与えられることを意味する。時間を構成する各瞬間が過去と未来に浸透されているものが「持続」であり、こうした性質こそがわたしたちの意識自身の性格であり、自由意志の源泉である。したがって時間の持続という捉え方こそが、心を物理的決定論に対抗する方式であるとされる。


以上のような心と物とに分ける議論は、伝統的な心身二元論的であり、さらには、心にのみ真理の根拠をおく点において観念論哲学の一種ではないのか?そう単純にはすまされないことが、次の著書の検討によって明らかになる。

物質と記憶

1896年出版。「イマージュ」という概念を提示。イマージュはわたしたちの心にまず初めに与えられた、物的なものと精神的なものの両側面を備えたものとされる。したがって、物理的法則(外側の世界が従う)と感情(内側の世界)に従い、心と物との両者を媒介する概念。ベルクソンは脳医学に着目し、心の内容は脳の状態に還元されず、脳よりも遥かに豊富なものであるとして、心に関する内化(心を心自身によって観察)によってのみ捉えられると主張。そうした観点から、心と身体を平行関係にあるものと捉えるスピノザを批判したが、これはのちに脳生理学の主流の考え方に対する反論を用意するものでもあったといえる。

知覚(外的な物質の一部という性格も持つ一回きりのもの)と記憶(過去を保持しつつ、現在・未来に結びつける働きをする)は、純粋な心の働きである持続を本質とする。失語症の臨床例などを検討し、緊張と弛緩のあいだに位置するわたしたちの心は、決して物体的な法則へは還元されないとする結論が導かれる。


そしてベルクソンの思想は、人間の生という枠を超えて自然全体の生にまで及ぶ。

『創造的進化』

1907年出版。生命の非機械論的把握による進化論。真の進化論においては、認識の理論と生命の理論とが互いに結びつかねばならないと主張。有機体を決定づけるのは予測不可能な形態形成であり、それこそが生命の創造にともなうものであるとされる。そして知性を超えてしまう生を「生命の跳躍(エラン・ヴィタール)」と名づけた*2。生の機械論的理解や目的論的な発想が批判の対象となっている。


ダーウィンの『種の起源』(1859年)は哲学界にも大きな影響を与え、唯物論的立場を強化していた。ダーウィンの進化論が人類の成立過程を解明したのと同様に、自然史・客観的実在として経過する資本主義の歴史を解明することを目指す立場にあったのがマルクスである。

参照:近代哲学の人間像('12) 第12回 マルクス主義(講義メモ)


他方、独自に社会進化論へと到達したのがハーバート・スペンサーであった。自然だけでなく社会や労働も含めた全てのものが、均一から不均一へという進歩の原則に従っているという思想を展開。ベルクソンはこれに対して、進化の過程をすでに出来上がったゴールの側から説明するのは誤りであり、生はそのように静的な説明方式を超えてしまうものであると批判している。

また進化論の生存競争に伴う自然淘汰に加え、ネオダーウィニズムにおいて突然変異という概念が登場している。現在の主流といえるこれらの考え方は、いずれも機械論的観点を貫徹する立場といえる。


エラン・ヴィタール(自由)に預かる存在である反面、物質的側面も担っているというのがわたしたちの実情である。この物質的側面に対する考察として、ベルクソンエネルギー保存の法則とエネルギー散逸の原理(エントロピー理論)とを太陽系全体にまで押し広げる。熱力学による生命論の基礎付けという科学論上の重要主題が、すでに20世紀初頭に論じられていた点は驚きに値する。20世紀後半に至り、偉大な熱力学者 イリヤ・プリゴジンによってベルクソンが評価されている事実も見逃せない。

論文「意識と生命」

ベルクソンによれば、進化論に関する哲学的議論は、最終的には「進化の目的は人間であったのか否か」に帰着する。人間の意識が他の動植物にはありえない様な自由――進化の推進力が物質的条件によって制約されることがないような自由を所有している。この自由は生命が本来、内側に含んでいるものにも関わらず、物質的条件という鎖に繋がれているために顕在化されずにいた。ところが人間に至ってこの鎖が断ち切られ、跳躍が起こったとベルクソンは主張する。

物質の機械論的運動が生命の一側面であることを認めた上で、意識の果てしない流れが物質を有機体化し自由の一手段とする「生の跳躍」を彼は重視する。言い換えれば、物質は生命にとって障害でもあり、道具でもある。そして生命が勝利したことを「喜び」*3という感情が告げ知らせてくれるとしている。

『道徳と宗教の二源泉』

1932年出版。彼の生命の哲学を倫理学や宗教学の領域で展開した著作。ベルクソンは道徳をふたつに分類している。

  • 閉ざされた道徳
    • 禁止事項など抑圧的な道徳。昆虫の従っている規則の類と同一視される。
  • 開かれた道徳
    • 自分自身や自分が属する集団の利害を超えた愛。統制によるのではなく、魅惑されることによって引き起こされるような人類全体、植物や物にまで及ぶような愛。道徳的偉人によってのみもたらされる。


同様の観点から宗教もまたふたつに分類されている。

  • 静的宗教
    • 呪術や迷信、儀式により社会秩序を維持するために存在しているような宗教。
  • 動的宗教
    • 偉大な宗教的神秘家によって説かれるような宗教。「愛の跳躍(エラン・ダムール)」へと導くような宗教。

ベルクソンの影響

彼の思想は後世に多大な影響を与えている。


参照:哲学への誘い('08) 第12回 森鴎外と小林秀雄(講義メモ)

*1:ただしこれはベルクソン流に解釈された概念であり、多くの認識論においてのそれ(たとえばカントでいう悟性の下働きとしての「直感」)とは異なる。

*2:予測不可能であるが、単なる偶然ではない。機械論的必然性から漏れたにすぎないとの含意もある。

*3:これは自然が仕組んだ生理的満足としての快楽とは異なるものとされる。自己自身の創造によって得られるような、人間固有の心の満足。