血液型が切り取るセカイ


Cat nicknames / kevin dooley


先日飲み会の場で「血液型なに?」というよくある話題になった。あらためて考えるとあれは興味深い話だなあと感じた次第。いわく「A型は枠をきっちり設定したがるタイプが多く、B型はその枠を無視する、O型は(以下略)」と。ところで話を切り出したその方はB型だったのよねー。このテーマを足場にした会話こそ「枠」そのものじゃないのかよと!w


で、血液型性格診断の科学的信憑性とかはまあこの際どうでもよいのです。気になっているのは、こうしてなんらかの類型が提示されたとき、僕たちはその足場をけっこう安易に信用してしまうこと(たとえそれが安っぽいものだとしても)について。そしてその足場がじつは結構もろいものかもしれないと疑う必要性について。


まだその思想には軽く触れた程度だけど、ドゥルーズの「生成変化」という概念はそうした問題への応答なのだろうなと思っている。なにがしかのあるべき足場・枠組みがあって、それを基準にしたうえで差異を見る(ex.「A型の割に珍しいね」)のではなく、そのような足場などもともとないのだ、変化する仕方そのものもつねに変化しつづけるのだ、と。ドゥルーズ「哲学は概念の創造だ」と主張したことで有名だけど、同時に、日常生活における「概念」の使用法について批判的に述べている。すなわち日常における概念とは、僕たちがものを考えなくて済むためのものでしかないのだと。複雑さを縮減するために僕たちは概念を用いる。それゆえに概念とはつねに恣意的・偶然的なものなのであって、それは自覚しておかねばならない。ときには用いようとする概念そのもの、あるいは概念が形成されるプロセスそのものを疑うことをしなければ、思考は行き詰まり、ひいては豊かな感受性の可能性を失うことに繋がるほかない。



血液型はともかく、自分の関心に引き付けて考えれば決して他人事ではない問題であることに気づく。僕は競馬をやるから、血統という切り口に関心がある(奇しくも同じ「血」だ…。)。個別のレースには性質のようなものがあって、平たくいえば、スタミナタイプ向きのレースか/スピードタイプ向きのレースか、あるいは休養明け初戦から走れるタイプ/走れないタイプかというようなもののこと。それを血統にもとづいて馬とレースの相性を判断するんだけど、じつはこの類型・分類が面白いくらい傾向判断に使える。ただ当然だけど、血統の傾向からは外れる馬というのが時々出てくるのね。そのとき陥りがちな罠は、「この血統構成なのに、傾向に従っていない。おかしい!」と考えてしまう場合があること。個別の馬の得手不得手を判断するツールとして採用したはずの血統別類型が、いつのまにかその型の方を「正」と捉えてしまっているというわけ。


冷静に考えればこんな滑稽な話はないよね。ところがこれは日常的にほんとうによくやってしまう! チャートを勉強すればするほど相場で上手くいかない、という問題にも同じような理由があるのだと思う。その点、血液型性格判断の場合、明らかな失敗を自覚する瞬間がなかなかないとは言えるかもしれない*1


僕たちは世界の全貌を把握したいという欲望を抱えている。それゆえ世界のあり方を鮮やかに説明する理論・概念を提示されたとき、たちまち魅せられてしまう。ある体系を発見したとき、その枠組みでさまざまなものを説明できる快楽に知らず知らずはまってしまう、そのような危険性はつねに潜んでいるように思うのだ。でもそこで提示されるのは混沌とした世界の複雑さを捨象し、恣意的に構成された部分的な「セカイ」にすぎない。どんなにその「セカイ」が強固で、包括的で、確実なものに見えても、ときどきは「外側」に思いを馳せる必要があるのではないか。


もちろん血液型診断を信じる人も、それが世界のすべてを説明するようなものなどとは決して思っていないだろう。ただそうは言いながら、結局自分の敷いた枠の外側へ出ようとしないということは大いにあり得る。アリバイ的に客観性を装うのは構わないが、損するのは結局自分である。「歳を重ねると頑固になる」とはよく言われることだけれど、おそらくそれは半分しか正確でない。肝要なのは自分の「セカイ」を拡張すること、加えてそれを死ぬまで継続していけるかどうか。それだけだろう。そして自ら引く「セカイ」の限界線は、いわば年齢を重ねるごとに弾力を失っていくようなものではないか。年配者であっても「セカイ」は拡張していける。ただそれはもちろん若いうちに取り組むようにはいかないということだと思う。自らの足場は一時的なものであり、それを切り崩し続けること。それを唯一の〈足場〉とする方法を学ぶのは、失うものが少ないうちに始める方が良いに決まっているからだ。


*1:なお僕はじっさいに「(A型なのにB型っぽいから)病院でほんとうの血液型を調べてもらったら!」と言われたw