キャラクター承認とコミュニケーション問題@『ゼロ年代の想像力』


平城宮跡 - Heijo Palace // 2010.10.07 - 42 / Tamago Moffle


「キャラクター」という言葉はいまやすっかり日常用語化しているが、考えるほどに、これはなかなかの曲者である。批評家・宇野常寛氏による次の指摘は重要だ。


ゼロ年代の想像力 - 宇野常寛

キャラクターは物語とその共同性から無縁ではいられない。ゆえに排他的になる。
(P.87)


キャラクター――いわゆる「キャラ」――はしばしば個人のアイデンティティと同一視される。たしかにアイデンティティとは強い関係性があるが、厳密に分けて考えるべきものである。キャラクターとは文脈依存の概念であるからだ。

「キャラ」を決定するのは誰か

「天然ボケの愛されキャラ」のAさんという人物が居る場合を考えよう。このとき、「Aさん=天然ボケの愛されキャラ」というキャラクター像を共有する集団が、必ずセットで存在することになる。おっちょこちょいでのんびりした性格のAさんは、行く先々で「天然ボケの愛されキャラ」として承認されていくのかもしれない。そうした状況下においては、Aさん自身もやがて「天然ボケの愛されキャラ」という自己像をアイデンティティとして受け入れやすくなるだろう。


だが冷静に考えてみれば明らかなように、「天然ボケの愛されキャラ」というキャラクター像は、決してAさんそのものではない。あくまでも、Aさんが所属するコミュニティによって創出されたストーリーを背負った存在。いわばコミュニティがAさんに与えた「役割」である。そして役割とは概して相対的なものであるから、たとえば、(Aさんに負けず劣らずの)おっちょこちょいでのんびりした性格の人間ばかりで形成された集団の中にAさんが放り込まれた場合、たまたまAさんがしっかり者ポジションを「役割」として与えられる姿もまた想像に難くない。


ところで、しっかり者ポジションを与えられたAさんは、普段とは違う「キャラ」として認識された自分をどう捉えるだろうか?もしかしたら、コミュニティごとに「異なる」自分を演じる楽しさに目覚めるかもしれない。しかし往々にして、僕たちは自分の「キャラ」には強いこだわりを持っている。『あの人たちは"ほんとうの自分"を全然わかってないのだ!』と、コミュニティとの決別を選ぶ可能性が高いのではなかろうか。


この場面において、"ほんとうの自分"とは一体なにか?という点は検討すべき問題である。もしも『いつもの自分なら「天然ボケの愛されキャラ」であるはずなのに!』と憤るのであれば、大きな誤解をしている可能性がある。「天然ボケの愛されキャラ」は特定のコミュニティ内で承認された「役割」であった。コミュニティが変わるということは文脈が異なるということであり、当然与えられる「役割」も異なったものになる。異なるコミュニティ間でAさんにそれぞれ付与されるキャラクター像は、たとえ一見同じような「天然ボケの愛されキャラ」として扱われていたとしても、その両者はまったく別なもののはずである。

「キャラ」はプロデュース可能だが・・・

ではもしも自分の意にそぐわない「役割」が与えらてしまった場合、どうすればよいだろうか。一番簡単な(安易な)解決法はコミュニティから離れてしまうことだろう。もうひとつは「役割」の書き換えである。となると、その「役割」はどのように決定されるかが問題になってくるが、それはもちろん自分自身の振る舞いによって決まる。

先述の同著から再度宇野氏の言葉を引こう。

自己像の承認を暴力的に要求するのではなく、コミュニケーションによってその共同体の中での相対的な位置を獲得することへ――大きな物語*1が失効し公共性が個人の生を意味づけない現在、私たちは個人的なコミュニケーションで意味を備給して生きるしかない。
だが、これは同時に私たちが生きるこの社会は、すべてがコミュニケーションによって決定されつつある、ということだ。
(P.316)


この言葉を目にした時、僕は絶望的な気持ちになった。コミュニケーション能力の重要性などいまや誰もが知っている。耳タコである。だがしかし!その重要性は、われわれが考えているよりも、ずっとずっと大きいというのだ!


そう。僕たちは自分自身のコミュニケーションによって、自分の「キャラ」を、「役割」を変えられる。その事実は非常に重要である。ただそれは、『自分が変われば世界は変わる!』などと無邪気に喜べる世界だろうか?僕にはそう思えない。裏を返せば、コミュニケーションの失敗は常に自分自身に原因を求める他なく、疲弊してコミュニケーションを怠れば、その結果の不利益も甘受する他ないという徹底的に自己責任の世界であり、にも関わらず、自分が変わったところで依然として動かない世界(現実)が目の前にあるのだから。


先ほど、「役割」の書き換えは自分自身の振る舞いによって決まると書いたけれど、実はもうひとつ方法がある。それは共同体内の共通認識(ルール)を侵す人物を徹底的に排除することだ。一定の秩序が形成された集団であれば、コミュニケーションの甚大な負荷に耐えるよりも、秩序を乱す因子を追い出す方が容易い。それがキャラクター承認が排他的になる所以である。


こう言葉にしてしまえば、そうした態度の醜悪さは明らかである。にも関わらず「悲劇」が幾度となく再生産され続けるのは何故なのか?それはひとえに、コミュニケーションで全てが決まる世界が、われわれ生身の人間にはあまりにキツイからではないか。コミュニケーション障害というとどこか劣った者のように世間では考えられているが、むしろ、常につきまとうコミュニケーションの負担の大きさに耐えられる人間の方が、実は少数派なのではないかという気さえしてくる。僕たちは自由という素晴らしい権利と引き換えに、とんでもない苦難を背負ってしまったことを自覚しなければならない。その前提に立つことこそが、この時代を生きる僕たちのスタートラインだったのだ。

コミュニケーション地獄に絶望したその上で

では、その苦難の時代をどう生き延びてゆけば良いのか?残念ながら、有効な処方箋はいまのところないようだ。以上のような問題意識に立つ、宇野氏の本書にせよ、『終わりなき日常を生きろ』〜最近の宮台真司氏が語る「見立て論」にせよ、有効な処方箋を示せてはいないように思う(むろん彼らだけに任せておけば良い問題ではないのだけれど)。とりあえず宇野氏と濱野氏の共著・希望論は近々読んでみる予定。


希望論―2010年代の文化と社会 (NHKブックス No.1171)
宇野 常寛 濱野 智史
NHK出版
売り上げランキング: 91773

*1:伝統や戦後民主主義といった国民国家的なイデオロギー、あるいはマルクス主義のように歴史的に個人の人生を根拠づける価値体系のこと。また地域共同体にせよ、それが強固に機能していた時代には、不自由ではあるが共同体内部における役割をこなせば一定のポジションが保障されていた。