痛みと死の誘惑


中川幸夫≪聖なる書≫1994年 金沢21世紀美術館


痛みのキツさを思い出した。


僕は以前、咽頭部周辺に潰瘍が大量にできて、苦痛で夜も眠れない日々をすごしたことがある(喉元からその奥にかけて、巨大な口内炎がいっぱいある状態を想像してもらえば大体あってる)。食事はもちろん、常に喉の痛みに悩まされたし、会話をする気力すら奪われた。ずっと眠っていられないのが嫌だった。ほぼ毎日のように病院通いをして治療を続けるものの、ほとんど改善は見られない。そんな状況が1ヶ月以上続いた。――あの時感じた健康な身体の尊さは、間違いなくいま僕の生きる足場になっている。でも同時に、あれから十年近くが過ぎて、ありありとしたあの実感はたしかに薄らいでしまっていたように思う。


昨朝からパートナーが歯痛を訴えていた。夜、仕事から戻った彼女は、眉間にしわを寄せ激しい痛みと闘っている。鎮痛剤も数時間と効果がもたず、目に見えて体調が悪化していく。吐き気もするようだった。ただ、痛み止めが効かない以上、氷で冷やすくらいしか対処のしようがない。病院の診察開始までの間、なかなか進まない時計の数字を何度も確認しながら、気持ちだけは献身的に時間をやりすごした。こういうとき、痛みを感じない側におかれるのもシンドイものだと思った。かつて僕が痛みと闘ったあのときとは逆の立場なわけだけど、これは無力感がやばい。


肉体的な痛みのキツさはなによりも、症状が出ているその間、いつ何時も忘れることができない点ではないかと思う。心身のすべてが痛みに支配されてしまう。ここから解放されたいと強く願うようになり、死の選択も急速にリアリティを帯びてくる。平常時では考えられないほど、結構あっけなく絶望で満たされてしまうのだ。そんな時、ともに闘ってくれる人がいるのはほんとうに心強い。僕自身、あの時期を乗り越えてこられたのは、パートナーがいつも傍に居てくれたからで、この人のためにも元気にならなきゃなと、そう思った。その一方で、痛みに顔を歪める自分を見て、疲労と悲しみに覆われていく彼女を見るのはやっぱり辛かった。抜け出せない感じがした。いっそ何も感じなくなってしまえたら楽なのに、とか考えたり。


とかいう身近な実感のもとで尊厳死の話題を読むと、相応の切迫感があるよな。痛みを抱える患者自身と、家族をはじめとする周囲の人たちはともに疲弊している。「(痛みから/介護から)楽になりたい/解放してあげたい」という相互の思いを想像すると、「安楽死」を望む立場もけっして他人事じゃない。他方で、「自らの死を希望する」という要件を規定することをめぐっては、様々な困難が当然つきまとうのだとも思う。介護や経済的な負担から家族への罪悪感で死を希望する、あるいは家族や医師からの要求を受け入れるという事態もほぼ確実に起こるだろう。現にそういう人は居るといえばそのとおりだが、それを法制化するということは全く次元の違う話なわけで。


尊厳死協会の前理事長は「医療や福祉のお金を削るために(膨張を抑制するために)法を作ろうなどと毛頭思っていない」と話しているそうで、たぶん実際そうなのだろう。でも、法制定時の精神が運用の現場に継承されず、拡大解釈されるという問題はぜったいに出てくる。いまのような不況で「コストカット」が熱烈に支持される状況下ではなおさらに。他人の生命をコストと考える思考は、自分の生命も他人にコストと宣告されることを容認せざるを得ない、というのは構造的な帰結。とにかく焦って決めるべき問題じゃないし、この法案には乗れないなあ。



処置を受けてパートナーは少し元気を取り戻して帰ってきた。いつもの顔があるとそれだけで安心することに気づくのはもう何度目か。労いに、森永焼プリンでも買っていっしょに食べようと思う。大好物なんです、僕が。

低収入&極小労働時間という生き方のエッセンス──労働から仕事へ

http://ulog.cc/a/fromdusktildawn/18871


日本一有名なニートid:phaさんの『ニートの歩き方』の書評記事。ノマドワーク・バッシングも盛んな昨今、この手の記事はネットで一定の支持を得つつも、つねに同時に「所詮はエリートのチラシの裏」的な冷ややかな視線が向けられている感じがいたします。その気分はよく分かるなーと思いつつ、上記の記事はおもしろく読みました。


で、直後にちょっとだけツイッターでつぶやいたのだけど、



というような印象を持ったので、そのことを書いてみます。

〈労働〉と〈仕事〉

政治哲学者のハンナ・アレントは、人間の活動的生活を三つに分類します。

  • 〈労働〉
  • 〈仕事〉
  • 〈活動〉


ざっくり言うと、このうち、〈労働〉とは生存に関わる生産活動のこと、〈仕事〉とはシステムの設計構築や芸術をはじめとする職人的・創造的な営みを指します。前者は、古代において奴隷階層が〈労働〉を担っていたことが象徴するように、人間の生存と繁殖には欠かせないけれども出来れば避けたい活動、軽蔑の対象となる苦役です。後者の〈仕事〉は、生存とは切り離された創造に関わる行為であり、当然こちらが高く評価されます*1


僕たちは普段「労働」と「仕事」(=働くこと)をほとんど区別せず使っています。そんな状況にあって、ある人は働くことを肯定的に捉え、また別の人がそれを否定的なものとして言及したりする。なぜこんなことが起こるのでしょう? アレントの論に従うなら、そうした事態は、〈労働〉と〈仕事〉を混同しているために生じるといえます。つまり、働くことにポジティブな意味を見出す人はそこに〈仕事〉的側面をみており、一方、ネガティブなニュアンスで語る人は〈労働〉的側面をみているというわけ。

〈労働〉を減らし、〈仕事〉を増やす生き方

前述したとおり、「少ししか働かず遊んで暮らす」という言い回しには、一般的にはネガティブな評価が下されることが多いように思います。しかし、以上のような観点を持ち込むと、これまでの不毛な対立軸とは全く別の論点が見えてくるのではないでしょうか。すなわち、「少ししか働かず遊んで暮らす」は「〈労働〉を減らし、熱中できる好きなこと=〈仕事〉をたくさんする生活」という言い換えが可能ではないかということです。


ここでちょっと視点を変えて、世の中に溢れる、「自己実現」と仕事を結び付けて語る啓蒙について考えてみたいです。というのは、そこでもやはり〈労働〉と〈仕事〉の区別はされていないように思うからです。仕事のやりがいや素晴らしさを説く人たちは、もちろん仕事の中の〈仕事〉の部分を見ているわけです。ただ、そうした信念を比較的すんなり受け入れられるタイプの人にとって、両者を区別していないことはさほど重要でないのではないか? なぜなら、仕事のうちにある〈労働〉の(精神的な)負荷が低く、「夢の実現のために乗り越えるべき障害」といった信念によって比較的容易に乗り越えてしまえるからです。


他方、仕事の〈労働〉的側面をとにかく苦痛に感じる(僕のような)人間は、彼らの主張と自分の感覚に言いようのない噛み合わなさを感じることになります。それは「〈仕事〉は自分ももちろんしたい、でもそれがなぜ仕事(or 労働)でなければならないのか?」という感覚です。端的にいえば、僕たちが仕事を拒否することを彼ら(の一部)はもの凄く嫌がりますよね。でもそもそも、どちらのタイプも〈仕事〉を求め〈労働〉を嫌がるという点で(おそらくは)一致しているわけです。「少ししか働かず遊んで暮らす」というスタイルは、一般的な意味でいう努力や仕事と程遠いものかもしれないけれど、そこにはまったく別種の〈努力〉や〈仕事〉が必要になるものだと思います。つまり目指す方向は本来同じはずなのです。


もちろん(普通の、賃金を稼ぐという意味での)仕事にやりがいを感じられることは素晴らしいことだし、さほど苦もなく「仕事=〈仕事〉」の同一視が出来る人はそれで良いのだと思います。ところが、仕事と〈仕事〉を容易には統合できないタイプの人間にとって、「仕事にやりがいを見出して自己実現しよう!」というメッセージほど役に立たず、悩ましいものはない。僕たちにとっての仕事は、圧倒的に〈労働〉的側面が大きいものだからです。でもそれは〈仕事〉に熱意を注がないという意味ではまったくない。


では、「自己実現=仕事」啓蒙が通用しない困った人種は、どのように生き延びていけばよいか? 戦略はふたつあるように思います。ひとつは、〈労働〉を〈仕事〉に変えていく努力をすること。もうひとつは、〈労働〉を極力避けつつ〈仕事〉にとことん比重を置いた生き方を志向することです。phaさんの処世術は、後者の方法論と言えそうですが、どちらを選ぶかは趣味の問題でしょう。当然、〈仕事〉をしながら収入を得ることがベストですが、「〈労働〉を減らし〈仕事〉を増やす」という構図を意識することがまずは重要かなと思います。@fromdusktildawn さんも言うように、phaさんの方法論はそのまま真似できるようなシロモノじゃないはずです。でも、応用なら十分できそうな気がします。


以上、phaさんの本を読まずに書いた感想でした。

補足

なお、先述のアレントの議論を分かりやすく解説した著作に『暇と退屈の倫理学』があります。内容そのものもたいへん面白く、おすすめです。「人間の不幸は部屋でじっとしていられず、つい気晴らしを求めてしまうことのなかに原因がある」と語ったパスカルの断章や、「退屈とは、今日を昨日から区別してくれる“事件”が起こることを望む気持ちがくじかれたものだ」というラッセルの洞察を出発点に、「いかに生きるか(=倫理学)」を模索する一冊。


*1:ちなみに〈活動〉は政治のこと。アレント自身はこれを最も強調した

お客様=神様の暴走は誰が止めるか問題


まったく大事とは思えない。「万引きの罪ってオッキーナ!」 / freeheelskiing_2


一部の悪質なクレーマーに悩まされる接客業の現場、という問題はツイッターでもしばしば話題になります。多くの人と同様に僕も違和感はずっと持ち続けていて、特に友人の生々しい体験(以下のまとめ参照)を聞いて以来、ほんと何とかならんもんか〜と考えてました。この難問にそう易々と打開策が浮かぶわけではないのだけど、ひとまず現時点での思いなどを。


小売業の現場から―ある万引き事件の顛末 - Togetter


この手の問題を考えるにあたって、大きな論点のひとつに「労働者の権利を経営層が軽視している」という点があると思います。企業にとって、顧客が重要な存在なのは間違いありません。できる限り、自社によいイメージだけ持っていて欲しいし、顧客の気分を害すようなことは言いたくない。これは経営層の率直な思いでしょう。それはたしかに労働者の立場からでも、「客観的にみれば」理解できることです。でも現場の労働者として関わるとき、やはりそこには直接的な利害関係が生じるわけですよ。労働者個人としての利害がね。



そりゃあ労働者だって、自分を雇ってくれている組織にマイナスになることは出来る限りしたくないものです。でも同時に、現場に立つ個人の権利は尊重されるべきですし、主張してしかるべきです。それを「経営者目線」なるものを労働者に内面化させ、権利行使の道を先回りして塞いでおくのは大問題だと思う。労働の現場でキツイ事態が「この」身に降りかかっているまさにその時に、「でもほら、客観的に考えてみろよ」ってそりゃおかしいでしょうよと。


経営者は労働者の権利を最低限守る義務があり、そのためには顧客に多少なり嫌な顔を見せることも時に必要と思います。本来、「経営」部分で解決すべき課題を、悪質なクレーマー対応や過剰に丁寧な接客という形でコストを労働者に押し付ける構造は経営の怠慢であり、搾取という他ない。このことを問題視する風潮をもっと強めていく必要性を感じています。



一方で、こうした労働者擁護の問題提起に対して、労働者の側から不快感を表明されるという構図も、僕たちの社会ではよくある光景です。要するに、労働者の権利を訴える行為を、労働者自身が嫌悪している節がある。「既得権益」を徹底的に叩きたくなる時代だから、それも分からないではありません。でもそれは端的に間違っていると思う。ただ、さらに付言すれば、ここで僕が「間違っている」というのは、「なんで権利を主張しないんだよ!」というある種の「強い個人であれ」論ではありません。貧弱なセーフティーネットや圧倒的買い手市場の現状を考えた時に、労働者個人が「我慢する」という選択肢がひとつの最適解になってしまっていることも事実だからです。実際、ことは特定の一企業に留まらず社会全体の課題であって、政府による規制なども含めて検討されるべき問題です。根本的な解決となると、とっても気の長い話ですよね。



ここで宋さんが言っていることは、遠大な理想のように聞こえるかもしれません。でもいま僕たち労働者に必要なのは、短期的に現実的な最適解を探すこと、それと同時に、今ある環境を必要以上に肯定しない、無批判に受け入れないという視点なのだと思います。「そうは言ってもさ」と言いたくなるその場面で、「でもこうであったら一番いいよね」というイメージも捨てないでおくこと。理想は理想として持っていれば良いのです。まして戦ってくれている人が居るなら、足を引っ張ることだけはやめておきましょう。


短期的な対処法についてはちっとも思いつけていないので、引き続き考えていきたいと思います。

「このくらいネタとして笑ってくれないとさ」という暴力


旬なネタでもなんでもないのだけど、ふと思い出したので書いておきます。


『アキバ妄撮』をもらって思い悩んだ話~決着篇! 有村悠(イラストレーター&ライター)×もふくちゃん(『アキバ妄撮』をありむーに渡した秋葉原ディアステージ社長)長編対談実現! - macc3131’s blog


ことのあらすじ的には、もふくちゃんこと福嶋 麻衣子さんが刊行した『アキバ妄撮』を、友人である有村悠さんに(好意で)渡したんだけど、有村さんは楽しむどころか思い悩んでしまった、というやりとりがあり、ネット上でちょっとした議論に。そのいさかいを巡って直接対話したのが上記の対談、といったところ。


で、僕はこの記事に以下のようなブコメをのこしていました。

作品の是非とは別に「男なら/大人なら、この位ネタとして楽しんでよ」て無配慮・暴力性があって、そこに無自覚なのでは。「有村的・残念な処女厨」という帰結には違和感


この問題意識は、もちろん上であげた件に限った話ではありません。多くの人にとってジョークとして笑える話題であろうと、ある人にとってはまったく笑えない、場合によっては深刻な問題として捉えている、そんな可能性はつねにあります。特に性をめぐる話題は身近で、かつデリケートな要素が多いもの。一般的にいって、性に関わる話題や下ネタにも「ある程度」言及できる/されることを許容するのが「オトナの嗜み」であると考えられている――逆にいえば、許容できないやつは「おカタイ人間」だと捉える――フシがあるように思いますが、その発想はやはり(多数者の)傲慢でしょう。


僕自身、かつて同僚の女性に下ネタをふって、「ヒクわ・・・」と言われたことがあります。そのときの僕はちょっと動揺しながらも、「このくらい笑ってよ〜」と言ってしまった。そんなことで怒るなんておかしい、「おカタイ」相手が悪いのだと思ってしまった。いやちがうだろと。不快にさせたんだから謝れよと。笑えないのは、「空気」を読めない相手が悪いのではなくて、相手との対話をせずこちらの「空気」ばかりを読ませようとする自分の「空気」の読めなさ。原因はそこです。



そもそも性をめぐる話題においては、シスジェンダーヘテロセクシュアル(非トランスジェンダー異性愛者)を暗黙の前提*1にしてしまうことが本当に多い。相手が実はゲイやレズビアン(どんな社会にも少なくとも3〜5%は居るといわれる)であるかもしれないし、性的な欲望をほとんど持たない人も実際にいます。あるいは、性に関する会話を単に避けたいと思っているかもしれない。「下ネタは嫌いじゃないけど、別にあなたとはしたくない」という気持ちなのかもしれない。それはたしかに、「言ってもらわなきゃ分からない」ことではある。でもだったら、分からないからこそ、不快にさせるかもしれない話題はひとまず避けよう。という慎重な態度こそが「オトナの嗜み」ではないかしら。


ちなみに「オトナの嗜み」をあえて拒否する、という選択もあるかもしれません。ただその時は少なくとも、相手を不快にさせるリスクをわざわざ犯しつつそのコミュニケーション様式を選択する意図、そうまでして成し遂げたい自分の欲望に、きちんと向き合うべきでしょうね。


そんなんじゃ当たり障りのない会話しかできない! って?


大丈夫、そんなあなたとの会話そのものがきっと当たり障りないものだろうから。考えすぎですよ♪(不快にさせたのなら、すみません)

*1:あとモノガミーもね

「物語」の必要性@朝生 『憲法2.0』の感想


先週末の『朝まで生テレビ』は、ゲンロン草案を受けて憲法改正をめぐる議論でした。いちばん聞きたかった、これからの日本をどうすべきかというビジョンや、憲法のコンセプトをめぐる議論はラスト30分になってようやく出てきた感じで。ニコ生ならそこから本番に突入できるのに…と思って観ておりました。


とくに印象的だったのは、東浩紀氏がリベラル批判として主張した「物語」の必要性の話。帝国主義共産主義運動もおわったポストモダンにあたる現在は、「大きな物語」不在の時代だといわれています。人間の生には根源的な理由は存在しないけれど、僕たちはそれに耐えられない。何らかの生きる意味、生き甲斐を見つけたい――物語はそうした僕たちの切実な要請に支えられて登場するのです。ある種の因果性という点で広く捉えれば、「努力すれば必ず報われる」といった信念もまた、人生に意味を与える物語であるといえそう。


でも物語には歓迎できない一面もあります。それは帝国主義共産主義運動の失敗に明らかでしょう。あるいは、オウム真理教が起こした一連の事件。地下鉄サリン事件の直後、宮台真司氏が『終わりなき日常を生きろ』と主張したことは有名ですが、これは物語に傾倒することの危険性を指摘したものでした。オウム教団の幹部たちが秀才揃いであったこともよく知られていますが、彼らも僕たちと同じように――あるいはもっと深刻に――人生の無意味さに悩み、生きる意味を求めて教祖に救いを見出した。その末路があの事件でした。

一見、この説自体がある種の物語的にみえなくもないですが、『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』という本の中で「教団の教え以外には生きる意味を与えてくれるものがない」といった趣旨の信者の苦悩が紹介されており、あながち無視できない話だと思います。

物語なしに生きることは可能か?

強烈な物語ほど、人々の強い支持を集めます。そしてそれはつねに暴走の危険性を孕むものです。今回の朝生には、自民党から西田昌司氏が出演していましたが、どうやら彼は党内の保守勢力の中でも極北に位置する思想の持ち主なようで、かなり独自な歴史認識を持っています。西田氏の立場にたってしまえば、僕たちの彼に対する批判は完全に無効化できてしまいます。それは僕たちの歴史認識の前提が、彼らからすると、根本的に間違っているからです。さすがに西田氏自身も、保守の中でもマイノリティに属することを自覚しているようでしたが、だからこそ自身の政治生命を賭ける――さらには人生を賭す――確固たる理由がそこにあるのでしょう。なんにせよ、僕たちには到底乗れないようなストーリーが、彼らにとって超重要な「真理」であるように見えました。


対するリベラルに属する人々は、歴史の反省を踏まえ、そうした物語による扇動の危険性を訴えてきました。いや。むしろ物語排除を暗黙の条件として活動してきたとすら言える。ところが、物語の提示を拒否し続けてきたリベラルの戦略は成果をあげていない。政策実現の求心力をまったく得ることが出来ていないのではないか?これが東氏の提起した論点です。


かつて宮台氏は、根拠のない物語にのめりこむのは危険だからまったり生きよう、と主張して、その場その場を楽しむコギャル的生き方を推奨しました。しかしのちに、現実的でなかったとして撤回するに至っています。それは短期的に可能な戦略でしかなく、人生全体にわたっては到底継続できないアイデアだったからです。人間はふと自分の将来に不安になり、「きっと何者にもなれない」人生の意味を問わずにはいられない。自由と引き換えに振ってきた、我が人生に対する価値付けの「呪い」。その克服が現代的な課題なのです。


そして政治の場面でも結局、人は「正しさ」だけでは動かないのではないか。だったら物語の必要性は認めるしかないじゃん。それが東氏が出した結論でしょう。人間の超人的な理性だけでなく、理性よりも劣位とされてきた、動物的な欲望も肯定するという、氏の思想を貫く主張として興味深いなあと。宮台氏がコミュニケーションを重視し、一貫して物語を否定する立場を取っているのとは対照的です。


ところで、ここでの論点とは直接関係ない箇所だったけれど、宋文洲氏が「僕がむかし中国でならった共産主義の教えみたい」と指摘していた点にも注目したいところ。それはゲンロン草案の中身というよりも、物語肯定のスタンスに向けられたもののように思えるのですよね。マルクス主義だって、当初は世界を正しい方向へ導くはずだと多くの人が信じていたわけです。でもああなった。同様の危険性は常に警戒していなければなりません*1。ともあれ、これがキッカケとなって議論が活性化していくといいなと思う次第です。

*1:東氏の思想的には、理性と欲望の相互監視という構図自体をシステム化すべきという立場だと思いますが。

近代哲学の人間像('12) 第14回 マックス・ウェーバーと社会学(講義メモ)

マックス・ウェーバー社会学

資本主義を解明するのに、ウェーバーマルクスとは異なった方法を用いた。それを、彼の宗教社会学に見るとともに、彼の社会学のもう一つの柱である「支配の社会学」の検討も行う。その延長線上で、パーソンズルーマン社会学の検討も行うことによって、社会学への哲学的アプローチの道を探る。


【キーワード】プロテスタンティズム、理解社会学、システム論、オートポイエーシス

宗教社会学

マックス・ウェーバーは20世紀初頭に活躍した社会学者。新カント派の影響を受けた独自の哲学的提言も展開している。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神

資本主義成立の源泉として、禁欲プロテスタンティズム*1の倫理をあげることができると主張。その前提としてまず、職業意識の高さがカルヴィン派と関連があることを意識調査結果を示し、またベンジャミン・フランクリンの勤勉と倹約を説いた文章に単なる蓄財の勧めということを超えた倫理(エートス=不断の心構え)の表明が認められることを挙げている。その際、禁欲プロテスタンティズムにおける「予定説」と呼ばれる教説に注目する。

予定説
新約聖書のパオロのロマ書、8章に由来。人間の魂が死後、天国に行けるかは否かは神によってあらかじめ決定されており、個人の努力では変えようがなく、その神の決定内容を知ることすらできない、とする考え方。そこから、せめて間接的な証拠を得たいとする願望が生じ、自分の信仰や生活が救いに値するものであるかを検証するという方向へ思想は展開する。


こうした思想が世俗化されていったとき、職業生活での自分の行い(成功)を間接的証拠とするという考え方に変わってくるとウェーバーは考えた。彼は、ルターの聖書解釈をもとに、世俗の職業労働が宗教的裏づけを持つ*2ものであると指摘している。すなわち、職業労働の遂行が単なる拝金主義から行なわれる以上のものであるがゆえにこそ、旧体制を覆し、信教の自由をはじめとした様々の自由の保障を伴う資本主義が確立することもあり得たのだと主張した*3


資本主義は物質的関心の産物というマルクス的立場と対立し、人間の思想の産物でもあるという考え方が示されている。物質的条件は歴史を動かす動力であることはたしかだが、その歴史の方向を決定する役割を果たすのは思想の方だ、というのがウェーバの主張だった。このように、宗教を教義の内部で扱うのではなく、経済・政治・社会との関係で把握しようとする自らの立場を、彼は「宗教社会学」と名づけている。

『支配の社会学

人間の社会には支配が不可欠であるとし、支配とは権力を持った主人が、自らの配下となる者を使って被支配者を支配するという形を取る。その上でウエーバーは、支配が実効性をもつためには物理的強制力だけでは足らず、被支配者側からの支配に対する正当性の諒解が不可欠であると主張する。正当性の諒解は以下の三つに分類されている。

  • 合法的支配
    • 形式的に正しい手続きに従って定められた制定規則のもとで行なわれる支配。官僚制がその典型で、近代を特徴づける形態。
  • 伝統的支配
    • 昔から存在する秩序と支配権力が神聖であるという信念に基づく支配。家父長制が典型で、前近代の支配形態を特徴付けるもの。天皇制や二世議員など。
  • カリスマ的支配
    • ある個人が天与の資質として特別に持っている能力への被支配者側からの帰依による支配。聖フランシスやヒトラーなど。


なお、ウェーバーは社会科学の方法論として、「没価値性」*4を主張していた点に注目。たとえば、カリスマを持つ人物の善悪は問わず、特別の人格的力にのみ注目するといった態度に示されている。

ウェーバーの方法論

理解社会学

社会学のような文科系学問は、普遍法則の確立を目指す自然科学とは異なって、個別的事象の特有の意味を理解を目指すものである*5。社会事象の解明には、それを担う個人の行為の動機を解釈し、その行為の経過を因果的に理解する手続きを取らねばならない。集団に意味を与えるのは個人の動機である。ウェーバーはそのように考え、『社会学の基礎概念』においては、個人の行為を四つに分類した。

  1. 目的合理的行為
  2. 価値合理的行為
  3. 感情的、情緒的行為
  4. 習慣化して無自覚となってしまった行為


もはや個人の意図には還元できないような集団的現象として立ち現れてくるような社会現象を解釈するためには、目的合理的意図だけに還元するだけでは不十分で、非合理的動機と複雑にからみ合う形で社会をとらえようとする。ウェーバーはこうした自らの立場を「理解社会学」と呼んだ。

ウェーバーは近代における合理主義化はもはや避けがたいと考えていたが、官僚制による支配を一個の機械として捉える見方には、敵対したマルクスと同様、近代社会のうちに物象化の危機を読み取っていたといえる。

社会システム論

社会を実証主義的方法論と個人の主体性の両面からとらえようとしたウェーバーの方法論は、後世に大きな影響を与えた。その系譜のひとつが「社会システム論」――われわれは否応なく社会システムに取り込まれており、自己決定の領域は限定されている。そのような観点からシステム化された社会を把握する理論――である。

パーソンズの「主意主義的社会行為論」

パーソンズは、社会進化論、行動主義といった19世紀後半〜20世紀にかけての代表的社会学の行為論を「実証主義」と呼んで批判し、個人の行為がある目的に適合する手段を選択し行使する際に示される「主意性」(ウェーバーの言葉でいえば「目的合理性」)に注目すべきと主張。「主意主義的行為論」を提示した。彼はこの目的・手段関係の合理性を追求する行為を「功利主義」と名づけるが、そこには「功利主義のジレンマ」と呼ばれる難問が生じるとされる。

  1. いくら目的・手段の合理的結合が追求されたとしても、目的設定がランダム(不確定)のものである限り、社会の結合は保証されない。
  2. この目的設定のランダム性を克服するために、目的を行為の条件となる環境なり遺伝的特質に融合させた場合、目的設定は非主観化されて、また再び実証主義に舞い戻る。


すなわち目的合理的な行為論だけでは、主意主義的社会行為論は維持できない。そこでパーソンズは「規範」という動機によって解決を図る。社会秩序はたしかに事実として存在しているが、それは単に物質的利害関心だけによって支えられるものではない。それを超える規範的動機が必要であり、事実と規範とは単なる対立関係にあるのではないと指摘される。


このような展望を得た後、パーソンズは個人の主意主義的社会行為を社会システムへと組み込む理論を展開している。

ルーマンの社会システム論

ルーマンフッサールの「間主観性」の概念を徹底させ、システム論の形成を試みる。彼によれば、社会システムこそ主体であり、その外部にある自然も、社会システムに属する個人の外面的活動も、さらには個人の内面までも、環境という位置に置かれてしまうと言う。そして社会システムが形成、保持、変動するあり方は、このシステムにとっての環境の複雑性の縮減という原則に従って決定される、とされる。


ルーマン流のシステム論は、現象の背後の「真の世界秩序の存在」への信念などが失われてしまった時代特有の機能主義的概念である。そのような世界においては、目的という概念は「複雑さを縮減する多くの戦略のうちのひとつでしかない」と言われる*6。社会システムは、環境の複雑性縮減の原理によって構成・保持されるが、そのことによってシステム自身は、サブシステム相互の間での機能分化の原則にしたがって複雑化していくのである。ルーマンの言葉では、「機能分化は社会の高度の複雑性を組織可能とする形式である」。

*1:カルヴィン派系のプロテスタンティズムのこと。英語圏ではピューリタニズムとも呼ばれる。

*2:ドイツ語の「職業」を意味するBeruf(ベルーフ)という言葉は、神の呼びかけという意味に由来するとされる。

*3:ただしウェーバーは、プロテスタンティズムの教義のなかに資本主義を肯定・推進する思想があったと主張したわけではない。プロテスタンティズムの予定説によって培われた心のありようのうちに、資本主義を形成する原動力となるもの(=エートス)があったということ。

*4:Wertfreiheit(ヴェルトフライハイト)の訳語。「価値自由」とも訳される。

*5:新カント派の哲学者リッケルトの考え方による。リッケルトウェーバーの先輩にあたる。

*6:ルーマンはさらに、不確定性の縮減という契機も社会システムの構成原理として加えているが、これは、社会制度が「ダブル・コンテンジェンシー(二重の不確定性)」を介して存在するものであるというパーソンズの指摘を受け継いだものである。

現代哲学への挑戦('11) 第14回 近代哲学の再検討(講義メモ)

近代哲学の再検討

近代哲学と、その復興をめざした現代哲学は、ヒューマニズムの哲学であったが、いまやそうしたイデオロギーは崩壊している。人間という概念を構成していた心身の分離、こころとからだの関係を再考し、科学からも排除されてきた「もの」の概念について考察する。


【キーワード】真理・健康と病気・物体と力・ニーチェハイデガー・思考・こころとからだ・メルロ=ポンティ

近代〜現代における哲学の変遷(前回までの総括)

19世紀半ば、資本主義的生活様式や現代的な自然科学が確立。自然科学はエリート学問から、実証主義的手法による大衆化が起こる。その中で、人間も生物の一種として捉える機械論的進化論が成立する。哲学は学問の一分野(講談哲学)へと縮小し、非哲学の領域でさまざまな理論――マルクスの経済学、フロイト精神分析ニーチェニヒリズムソシュール構造主義etc――が展開されるようになる。しかしこうした思想理論も社会や人間像を説明しきるものではなかった。


20世紀前半にはフランクフルト学派が登場し、マルクスフロイトの思想を統合的に検討。同じころ、ドルゥーズとガタリニーチェ思想の影響のもとでマルクスフロイトを結びつけて社会と人間を論じた。正統派哲学の領域においては、ベルクソンハイデガーといった現代哲学者が登場する。科学の諸成果を根本的に批判、それらをも基礎付ける壮大な体系の構築――デカルトが行なったのと同様なポジションで科学と人間を論じること――を目指した。その中で、人間の精神を再確立しようとする「実存主義」が一時的に大きな高まりを見せるが、20世紀半ばにはその限界も次第にはっきりとして来る。


ソシュール構造主義は近代科学とは異なった新しい人文学とみなされ、フランスではその影響のもと、多様な主題にわたって華々しい議論が展開される。その影響は広く世界中におよぶ(フランス現代思想)。ニーチェ思想の影響をうけたフーコーの生命政治論はひとつの到達点である。現在はそのフランス現代思想という流行現象――宴の後であり、思想のすべてが行き詰まっているかに見える状況にある。

現代における生の哲学

生の哲学は、進化論や自然科学的な知識が社会状況へ広範に介入するようになったことに対する、哲学の側からの積極的な受け止めである。生を最大限に受容しようとする立場のうち、生に関する科学的見解を一切排して意識を中心において捉え直そうと試みたのが「実存主義」であった。しかし実存主義のあとに展開した現代思想においては、もはや近代哲学における中心的主題――自由・平等・理性・主体――を前提とせず、欲望・暴力・監視・逃走といった概念によって、社会や人間を捉え直そうとしてきた。こうした変化は中心的人物の存在しない地滑り的な現象である。


いまものを考えるときに重要なのは、ふたつの主題を混同しないこと。「主体として社会を変革すべきだ」「人生の意味を探求すべきだ」といった近代の延長的発想は、現在の状況では必然的に行き詰まる他ない。複雑で全体が捉えられない、自然と社会と歴史の茫漠とした連続体の中にわれわれは生きている(ポストモダン状況)。それを様々な角度から切断し断面を比較することで、いま人々があえて成そうとしているその意味を明らかにしようとする思索の方向を目指すべきではないか。

アンチ・ヒューマニズム

生の哲学から出発した現代思想の到達点として、フーコーの生命政治論、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』が挙げられる。

生命政治
資本主義という経済体制を前提にしつつ、膨大な量の欲望の暴走を統御しようとする装置。国家が自らを存続させるために機能している(自己目的化)。権力が生命を担保にして――「病気になったら困る」という事実をちらつかせて――、臨床医学的知識を宣伝・強制することにより、人々の理性的判断の前提を形成しようとする。医師や科学者たちはこうした「厚生権力」の尖兵として健康知を人々に浸透させていく。これはあらゆる人を巻き込み、選択の余地のない隷属を推進することと等しい。医学は身体の病気の延長で精神の病気を定義する。臨床医学的知識を受け入れない人は「意見がちがう」のではなく、「病気」なのである。こうして人は、自由で平等で理性的主体(ヒューマニズム)であること剥奪される。

これほどまでに個人の生活に干渉する権力は、これまで宗教以外にはなかった。実際、生命政治は近代が終わり始めたとき、中世の「神学」に相当するものとして出現している*1。現代の「健康」という文化的妄信には、ルネサンス期の天才・芸術家・英雄をモデルにした人物たちの並外れた知性や自由・幸福に対するルサンチマンがあるのようにも見受けられる。


自ら進んで受け入れるタイプの隷属は、ファシズムへと繋がると指摘されている。また生命政治は管理社会論には還元できない。自由という概念の原理的問題に気づかねばならない。自由な主体として人間を捉えるとき、病的とされ排除・監禁されるものとしての人間(ヒューマン)が見えてくるのである。


ルネサンス期の人文学、20世紀の人間愛に代表されるように、ヒューマニズムには色々なタイプがある(初期ハイデガー)。ゆえに、哲学はひとつのヒューマニズムであってはならない(サルトル)。ポストモダン状況で生き延びる哲学は、アンチ・ヒューマニズム――近代のヒューマニズムから離れるという困難な努力――の立場ではないか。「人間にならなければならない」という西洋近代の普遍主義は終わったのであり、それぞれの文化でそれぞれに自分を捉えてよい。ドゥルーズ=ガタリの言葉でいえば、いかにして「器官なき身体」を獲得するか――フロムのいう「自由からの逃走」をあえて果たし、主体という名のパラノイアになってファシズムに導くことなしに、生を享受する状態を待ち受けるか。それこそが哲学の問うべきことである。

これからの哲学の使命

人類は知らないこと、知りえないことに対して「神」の名を与え、分かるもののように扱ってきた。神を殺したのは科学を信仰の対象にした大衆であり、俗流実証主義や大衆功利主義であった(ウェーバー)。だが、神という絶対的起源を否定するならば、人間は自らの存在の偶然性や無意味さに耐えなければならない(シェーラー)。


ハイデガーのいう「存在忘却の歴史」とは、起源の捏造を意味するものではないか。彼はニーチェの古代回帰に習いながらも、ニーチェを「最後の形而上学者」と呼び、死を宿命とする自覚から人々の思考を逸らしたとみなした。翻って後期のハイデガーは、「存在」の上に家を建てて住まうことを進めている。機械的なものと人間的なものの調和した世界での生き方こそを探求すべきではないか。哲学は生活の指針を与えるようなものであるべきである。


この講義の結論として以降述べていきたいことは、人間でありながら人間を超えていくというヒロイズムではなく、生における受動性を知る思考である。

哲学の原点回帰へ

真に起源が問題になるのは人生においてである。宗教がその問いを担えないとき、哲学がその指針を示すべきではないか。哲学は政治であってはならない。哲学とは真理を代理するエクリチュール、聖書の如きものではなく、それぞれが自分の思考を超えようとする時に必要とされるパロールである。パロールの威力は、問いと答えの関係が次のどのような問いを生み出すかについての隠された思考、語る言葉とすでに知っているものとの関係を明確にしようとする思考(弁証法)に依拠する。ソクラテスの魂の産婆術である。それは真理を定義しようとしているのではないから、どんな結論が引き出されてもよく、世間の常識から逸脱し狂気じみたものになってもよい。

こうした古い哲学に対して、近代哲学は「なにが真理とされるか」の政治の歴史であったといえる。それがやがて「すべての起源は捏造である」という言説が勝利をおさる。大衆がそれぞれ好き勝手に起源を設定できるようになったポストモダン状況に対して、モダンの前衛としての現代思想はむしろ歴史的言説は無効だとして大衆に対峙するようになった。メルロ=ポンティが「非哲学」と規定した現代の思想は、ローティの言うように、大学とは別の場所で哲学史の断片を自在に組み合わせて使えるエクリチュールを製造する文化批評にとって変わられつつある。もう一度ソクラテス伝統に戻り、現在の状況の偽問題を暴露し、もっと切実な問題を明らかにしてゆくべきではないか。

デカルト近代哲学における問題点の再検討

「心が健康か病気かを規定するのは、社会生活の標準的生活のあり方である」とフロイトがいうように、人が統合した思考と行動をもつことは社会の要請に拠るのであり、人はもとより統合的主体ではない。本来的には分裂した存在であり、わたしの身体、わたしの生は、わたしの思考からは思うままにならないものである。「わたし」というわたしの中のひとつの実践は、近代の厳しい社会的要求に都合の良いように仕向けられ、形成されてきた。しかし身体経験そのものの中に、わたしの身体と他者の身体、および世界の中にさまざまな「もの」が存在する――わたしもまた「もの」のひとつである――という体験や、歴史として理解される以前の「生の歴史」があるはずである。

デカルトが主題としてきた、心身の分離とわたしの思考によるその統合ではなく、そのさらに徹底した分解・分裂・分離を行なってそこに「もの」を見出すべきではないか。次回はこの「もの」について詳細に検討する。

*1:中世のスコラ哲学は、神の存在と教会の真理を前提にして、それを否定しない立場で哲学的探求がなされた。その伝統を乗り越えたのが近代哲学であった。