「このくらいネタとして笑ってくれないとさ」という暴力


旬なネタでもなんでもないのだけど、ふと思い出したので書いておきます。


『アキバ妄撮』をもらって思い悩んだ話~決着篇! 有村悠(イラストレーター&ライター)×もふくちゃん(『アキバ妄撮』をありむーに渡した秋葉原ディアステージ社長)長編対談実現! - macc3131’s blog


ことのあらすじ的には、もふくちゃんこと福嶋 麻衣子さんが刊行した『アキバ妄撮』を、友人である有村悠さんに(好意で)渡したんだけど、有村さんは楽しむどころか思い悩んでしまった、というやりとりがあり、ネット上でちょっとした議論に。そのいさかいを巡って直接対話したのが上記の対談、といったところ。


で、僕はこの記事に以下のようなブコメをのこしていました。

作品の是非とは別に「男なら/大人なら、この位ネタとして楽しんでよ」て無配慮・暴力性があって、そこに無自覚なのでは。「有村的・残念な処女厨」という帰結には違和感


この問題意識は、もちろん上であげた件に限った話ではありません。多くの人にとってジョークとして笑える話題であろうと、ある人にとってはまったく笑えない、場合によっては深刻な問題として捉えている、そんな可能性はつねにあります。特に性をめぐる話題は身近で、かつデリケートな要素が多いもの。一般的にいって、性に関わる話題や下ネタにも「ある程度」言及できる/されることを許容するのが「オトナの嗜み」であると考えられている――逆にいえば、許容できないやつは「おカタイ人間」だと捉える――フシがあるように思いますが、その発想はやはり(多数者の)傲慢でしょう。


僕自身、かつて同僚の女性に下ネタをふって、「ヒクわ・・・」と言われたことがあります。そのときの僕はちょっと動揺しながらも、「このくらい笑ってよ〜」と言ってしまった。そんなことで怒るなんておかしい、「おカタイ」相手が悪いのだと思ってしまった。いやちがうだろと。不快にさせたんだから謝れよと。笑えないのは、「空気」を読めない相手が悪いのではなくて、相手との対話をせずこちらの「空気」ばかりを読ませようとする自分の「空気」の読めなさ。原因はそこです。



そもそも性をめぐる話題においては、シスジェンダーヘテロセクシュアル(非トランスジェンダー異性愛者)を暗黙の前提*1にしてしまうことが本当に多い。相手が実はゲイやレズビアン(どんな社会にも少なくとも3〜5%は居るといわれる)であるかもしれないし、性的な欲望をほとんど持たない人も実際にいます。あるいは、性に関する会話を単に避けたいと思っているかもしれない。「下ネタは嫌いじゃないけど、別にあなたとはしたくない」という気持ちなのかもしれない。それはたしかに、「言ってもらわなきゃ分からない」ことではある。でもだったら、分からないからこそ、不快にさせるかもしれない話題はひとまず避けよう。という慎重な態度こそが「オトナの嗜み」ではないかしら。


ちなみに「オトナの嗜み」をあえて拒否する、という選択もあるかもしれません。ただその時は少なくとも、相手を不快にさせるリスクをわざわざ犯しつつそのコミュニケーション様式を選択する意図、そうまでして成し遂げたい自分の欲望に、きちんと向き合うべきでしょうね。


そんなんじゃ当たり障りのない会話しかできない! って?


大丈夫、そんなあなたとの会話そのものがきっと当たり障りないものだろうから。考えすぎですよ♪(不快にさせたのなら、すみません)

*1:あとモノガミーもね