「物語」の必要性@朝生 『憲法2.0』の感想


先週末の『朝まで生テレビ』は、ゲンロン草案を受けて憲法改正をめぐる議論でした。いちばん聞きたかった、これからの日本をどうすべきかというビジョンや、憲法のコンセプトをめぐる議論はラスト30分になってようやく出てきた感じで。ニコ生ならそこから本番に突入できるのに…と思って観ておりました。


とくに印象的だったのは、東浩紀氏がリベラル批判として主張した「物語」の必要性の話。帝国主義共産主義運動もおわったポストモダンにあたる現在は、「大きな物語」不在の時代だといわれています。人間の生には根源的な理由は存在しないけれど、僕たちはそれに耐えられない。何らかの生きる意味、生き甲斐を見つけたい――物語はそうした僕たちの切実な要請に支えられて登場するのです。ある種の因果性という点で広く捉えれば、「努力すれば必ず報われる」といった信念もまた、人生に意味を与える物語であるといえそう。


でも物語には歓迎できない一面もあります。それは帝国主義共産主義運動の失敗に明らかでしょう。あるいは、オウム真理教が起こした一連の事件。地下鉄サリン事件の直後、宮台真司氏が『終わりなき日常を生きろ』と主張したことは有名ですが、これは物語に傾倒することの危険性を指摘したものでした。オウム教団の幹部たちが秀才揃いであったこともよく知られていますが、彼らも僕たちと同じように――あるいはもっと深刻に――人生の無意味さに悩み、生きる意味を求めて教祖に救いを見出した。その末路があの事件でした。

一見、この説自体がある種の物語的にみえなくもないですが、『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』という本の中で「教団の教え以外には生きる意味を与えてくれるものがない」といった趣旨の信者の苦悩が紹介されており、あながち無視できない話だと思います。

物語なしに生きることは可能か?

強烈な物語ほど、人々の強い支持を集めます。そしてそれはつねに暴走の危険性を孕むものです。今回の朝生には、自民党から西田昌司氏が出演していましたが、どうやら彼は党内の保守勢力の中でも極北に位置する思想の持ち主なようで、かなり独自な歴史認識を持っています。西田氏の立場にたってしまえば、僕たちの彼に対する批判は完全に無効化できてしまいます。それは僕たちの歴史認識の前提が、彼らからすると、根本的に間違っているからです。さすがに西田氏自身も、保守の中でもマイノリティに属することを自覚しているようでしたが、だからこそ自身の政治生命を賭ける――さらには人生を賭す――確固たる理由がそこにあるのでしょう。なんにせよ、僕たちには到底乗れないようなストーリーが、彼らにとって超重要な「真理」であるように見えました。


対するリベラルに属する人々は、歴史の反省を踏まえ、そうした物語による扇動の危険性を訴えてきました。いや。むしろ物語排除を暗黙の条件として活動してきたとすら言える。ところが、物語の提示を拒否し続けてきたリベラルの戦略は成果をあげていない。政策実現の求心力をまったく得ることが出来ていないのではないか?これが東氏の提起した論点です。


かつて宮台氏は、根拠のない物語にのめりこむのは危険だからまったり生きよう、と主張して、その場その場を楽しむコギャル的生き方を推奨しました。しかしのちに、現実的でなかったとして撤回するに至っています。それは短期的に可能な戦略でしかなく、人生全体にわたっては到底継続できないアイデアだったからです。人間はふと自分の将来に不安になり、「きっと何者にもなれない」人生の意味を問わずにはいられない。自由と引き換えに振ってきた、我が人生に対する価値付けの「呪い」。その克服が現代的な課題なのです。


そして政治の場面でも結局、人は「正しさ」だけでは動かないのではないか。だったら物語の必要性は認めるしかないじゃん。それが東氏が出した結論でしょう。人間の超人的な理性だけでなく、理性よりも劣位とされてきた、動物的な欲望も肯定するという、氏の思想を貫く主張として興味深いなあと。宮台氏がコミュニケーションを重視し、一貫して物語を否定する立場を取っているのとは対照的です。


ところで、ここでの論点とは直接関係ない箇所だったけれど、宋文洲氏が「僕がむかし中国でならった共産主義の教えみたい」と指摘していた点にも注目したいところ。それはゲンロン草案の中身というよりも、物語肯定のスタンスに向けられたもののように思えるのですよね。マルクス主義だって、当初は世界を正しい方向へ導くはずだと多くの人が信じていたわけです。でもああなった。同様の危険性は常に警戒していなければなりません*1。ともあれ、これがキッカケとなって議論が活性化していくといいなと思う次第です。

*1:東氏の思想的には、理性と欲望の相互監視という構図自体をシステム化すべきという立場だと思いますが。