自己目的化するマナー。ルールに思考停止する日本社会

札幌市営地下鉄車内。
Canon FT finder. / MJ/TR (´・ω・)


最近の過剰コンプライアンス、「ルールだから守れ!」の風潮にうんざりしてきた。その関連でずっと違和感を持っているのがマナー問題だ。なんかもうマナー原理主義者(と思わず言いたくなる人物)が多すぎる。いまやマクドナルドでまで、幼い子供を持つ親(特に母親)に対して、「大人しくできないならガキを連れてくるな!」という批判が寄せられ、さらに一部で強烈に支持される事態が起きている。ちょー住みにくい世の中じゃないデスカ?


だいたい、マナーってなぜ守るのかよく分からないものも多い。この思いもまた多くの人が共有しているように思う。少し古い記事だが、代表的な声を紹介しよう。


車内で携帯電話を使って通話をしてはいけない理由がわからなくなってきた - 頭ん中

これはもしかして「ダメだからダメ」なんじゃないだろうか。


携帯電話が普及し始めたころから
「車内で通話しちゃダメ」「音を鳴らしちゃダメ」
ということを誰かに言われていて、
「ああ何かダメなんだなあ」と思って育っていくうちに
理由も何もなくてとにかくダメだというのが定着したんじゃないか
という気がしてきた。


電車内では他にも、飲食や化粧してると白い目で見られるなどの「マナー」が存在するが、とりわけ視線が厳しいのは携帯電話による通話だろう。しかもこれ、なぜ携帯電話の会話だけが駄目なのかを誰も明言しない。されたとしても納得できた試しがない。
見知らぬ他人の会話を聞かされればたしかにノイズにもなるだろう。かといって、それほど目くじら立てるほどじゃない場面だっていっぱいある。それこそ人によるし、場合による。でも「とにかく駄目!」なのだ。

「世間」がもたらす思考停止


最近は、こうした社会問題として語られる話題を目にしながら、「世間」について色々と考えてしまう。僕は子供の頃からこの世間というやつが持つ息苦しさにもうんざりしてたのだが、今なおこの厄介な「空気」は僕らの社会を支配している。世間学(という呼び方があるらしい!)の第一人者である阿部謹也は、著書の中で以下のように語っている。


「世間」とは何か: 阿部 謹也

西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、社会をつくりあげている最終的な単位として個人があると理解されている。
日本ではいまだ個人に尊厳があるということは十分に認められているわけではない。しかも世間は個人によってつくられ、個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。世間は所与とみなされているのである。(P.13)

子供には自分の夢があり、それが実現できると思っている。親は自分が苦労した世間との葛藤を子供にはさせたくないと思っている。親と子の葛藤の多くはこの種の問題なのである。親が子供に世間について教えればよいのだが、親自身世間を対象化して教えることができない。何故なら親は自分の経験から自分が関わった世間を知っているにすぎず、そこに普遍的な観点を持ち込むことができないからである。
世間は人によってさまざまな形を取り、普遍的な形で説明することが困難なのである。それと同時に世間というものが理屈を越えたものだということも、説明に困る点なのである。(中略) しかも情理や感性とも深い関わりがあるので、合理的に説明することも難しい。親が子供にしばしば「理屈をいうな」と叱るのも、その説明の難しさ故なのである。(P.15)


世間と社会はちがう。社会は個人同士の関わりによって作られるもの、言い換えれば市民のために社会が存在する。一方で世間とは、あたかも自然のように、厳然と存在するものとして捉えられている。すでに確固として在る環境の上にわれわれは生まれて来た──重力に従うことに理由がないように──のであって、息苦しさを感じようがそれは変えられない。文句を言っても仕方がない。個人が適応する他ない。そのように人々は考えている。したがってその発想の枠内では、世間に従うことは摂理であり「理屈ではない」のだ。でもそのことに気づいたいま、「世間知らず」の姿も少し違ったものに見えてきやしないだろうか?



話題をマナーに戻そう。そもそもマナーとはなんだろうか。僕は概ねこんな風に考えている。「場を共有する他者同士が、不快な機会を減らすための相互の配慮」ではないかと。
以下のブログで紹介されている、「理想的な社会のあり方を構想する様式」(社会学者・見田宗介氏による)が興味深いので、ここぞとばかりに引用したい。


人はなぜ「貧しくても幸福な生」の物語に憧れるのか | Kousyoublog

  1. 歓びと感動に充ちた生のあり方、関係のあり方を追求し、現実の内に実現することを目指すもの
  2. 人間が相互に他者として生きるということの現実から来る不幸や抑圧を、最小のものに留めるルールを明確化してゆこうとするもの


大変美しい理念でちょっとくすぐったい感じもするが、多くの人にとっておよそ合意できる内容ではないだろうか。そう重要なのは、不幸を減らすことなのだ。マナーやルールは、おそらく、その手段として用意される。でも現実には、「マナーを守ること」そのものが目的化してしまっている印象が僕にはある。だとすれば本末転倒というものだ。


マナーを守らない人が目の前に現れたとき、それはたしかに不快な思いをするだろう。でもマナー違反を糾弾する前に少しだけ考えてみてほしい。そのマナーは、自分と、そして相手の不幸を小さくするために、本当に妥当なものなのかどうかを。少なくとも僕は、「自分を不快にする子供やその親は、来店を控えるべきだ!」という主張によって肯定されるようなマナーならば、是が非でも異議を唱えたい。そんなもの糞食らえだと。


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