≪自由≫ < 自己責任の時代


ABC2011Winter_065 / TAKA@P.P.R.S


『君たちには無限の可能性がある』


みたいな話はよく聞くし、子供たちには可能な限りそう言ってあげたくなるもの。でもそれは、誰もが知っているように、方便である。客観的に見て、人々の選択肢は、各個人のもつ環境によって大きく制約されているだろう。(もちろん限られた選択肢の中で無数の「微細な」差異はあり得るけれど)


一番単純な話でいえば、大卒か/そうでないかでは選択肢の幅は大きくちがう。近年では、ノマドワーカーや会社員でもアクティビスト的な働き方が指向されているようで、それ自体は良いことだと思うけれど、そうなれる人ってやっぱり学歴(とその中で得た知恵)を持った謂わばハイクラスの人が圧倒的に多いように思う。そうでない人はどうすれば良いのか。


一方で、中卒から一旗揚げる成り上がりタイプも稀にはいるもので、不遇な環境を克服するバイタリティは素直にすごいと感じるし、尊敬する。でもだからといって『俺にすら出来た。だからお前だってできる』という言説には同意できない。そこには強力な生存者バイアスが潜んでいるからだ。人一倍努力した自負のある人は、他人の「甘え」を許せないというだけの話である。ポジティブ思考などと勘違いしてはいけない。よくも悪くも、「生き残れるのはたまたまである」ことから、僕たちは逃れられない。


生きていく上で、「あった方が明らかに有利」なものはたしかに多い。大学進学率の高まりは人々の指向を端的に表すものだろう。しかしこの明らかに有利な選択を回避した/せざるをえなかった場合、その結果は自己責任として回収されてしまう。お金がなくて高校・大学に行けなかったというケースであれば、支援政策(環境)の不備は棚上げされがちで、本人の選択を攻める傾向にある。なんなら、「そんな親の元に生まれたのだから仕方がない」という風潮すらある気がする。社会ってなんなんすかね。


本当の自由などありはしない。僕たちに与えられているのは、暗黙に様々な制約が課された上での、「括弧付きの≪自由≫」なのだ。その限定された≪自由≫に対して課す責任の大きさは、現状あまりに大きすぎるのではないか。個人に責任を押し付けて済ませてたら、社会(制度)の怠慢・不正義を放置することにもなってしまうし、行き着くのは「弱者は生き残らなくて良いです。」しかないじゃん。
とか、最近そんなことばっか考えてる暇人。