女/男が抱える「生きづらさ」の正体@『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』

鐵道沿著台中港岸向北延伸
台中港_封閉的舊鐵道 / (Lily)


女ぎらい――ニッポンのミソジニー: 上野 千鶴子

紀伊國屋書店のPR紙『scripta』での連載をまとめた一冊。ウェブ上で公開されていた頃(現在は削除されている)に読んだテキストが大変面白く、ずっと読みたいと思っていた本だ。ようやく課題消化達成。


オビより。

男の「女ぎらい」と女の「生きづらさ」を解剖する!
ミソジニー。男にとっては「女性嫌悪」、女にとっては「自己嫌悪」。


本書の副題にもなっているミソジニーとは、「男」に対し「女」を軽視し、蔑み、排除する偏見・女性嫌悪のことである。われわれが生きる社会全体を覆い尽くす空気のような存在であり、男性はもちろん、女性自身もまたこの意識から逃れることはできない、と上野は語る。


ミソジニーを論じる上で、もうひとつのキーとなるのが、社会学者イヴ・セジウィックが提示したホモソーシャルという概念だ。「性的であることを抑圧した男同士の絆」のことを指すのだが、この概念を用いることで、異性愛秩序、男性間の権力と欲望、同性愛嫌悪、ジェンダーの非対称性、女性差別…といったもの、それまで感覚的に多くの人々(特に女性たち)が持ち続けた「違和感」を、見事に説明できることを彼女は示した。


「女性蔑視の意識など持っていないつもりだ」と素朴に感じる、あるいはそう信じたいという人もいるだろう。ミソジニーホモソーシャル、そしてホモフォビアの関係性を解説した第2章は、いかにこれらの概念が、僕たちの言動や価値観を支えているかを教えてくれる。
やや長めの引用にはなるが、以下に紹介してみたい。(P.25〜)

「男同士の絆」と、排除される「男でない者」たち


まず上野は、フロイト理論を用いて「性的であるとはどういうことか?」の説明を試みる。

父に同一化し、母(と似た者)を「持ちたい」と思った者が「男」となり、母に同一化し、父(と似た者)を「持ちたい」と思った者が「女」となる。(中略) 母のような者を求めて、母の代理人を妻に求める者が異性愛の男となる。他方、自分と同様に母にファルス(象徴としてのペニス)がないことを発見して父のファルスを欲望した者は、ファルスの代用品としての息子を求めて母に同一化することで、異性愛の女になる。すなわち、「なりたい欲望」と「持ちたい欲望」とを異性の親にそれぞれふりわけることに成功した者だけが、異性愛の男もしくは女となる。

「なりたい欲望」と「持ちたい欲望」とはそんなにかんたんに分離できるわけではない。「あの人のようになりたい」と切に欲望することと、「あの人を自分のものにしたい」とあつく欲望することとは、しばしば重なりあう。ホモソーシャルのなかには、ホモセクシュアル*1な欲望が含まれている、両者は連続体である、とセジウィックは言う。


ホモソーシャルホモセクシュアルな欲望が含まれることには、危険がともなう。なぜなら、「なりたい欲望」とは対象への同一化をつうじての性的主体化、「持ちたい欲望」とは対象への欲望を通じての性的客体化を意味するからである。したがって同一化の対象である他者(主体)を、同時に性的欲望の対象(客体)にすることはできない。「同一化」とは「あのひとのようになる(つまり他者になる)」ことをつうじて主体となることであり、異性愛秩序のもとでは、息子が「男になる」とは、父のように「女(性的客体)を所有する」性的主体に同一化することをさす。


「男同士の絆」に潜むホモセクシュアルな欲望の危険性。ミソジニーの核心はそこにある、というのがセジウィックの見立てである。古代ギリシャにおける同性愛・少年愛の史実は、その主張に強い説得力を与えている。

ペニスをもって「貫く者」(性的主体)と「貫かれる者」(性的客体)のあいだには一方的な関係があり、「貫かれる者」は劣位にあるとされたからだ。(中略) なかでも、自由民の少年みずからの自由意思で性愛の客体になることを選ぶ(ようにしむける)ことが最高の価値ある性愛であり、選択の自由のない奴隷との性愛はランクが劣るとされた。*2

(中略)

貫かれること、モノにされること、性的客体となることを、べつの言い方で「女性化される」とも言う。男性がもっとも怖れたことは、「女性化されること」、つまり性的主体の位置から転落することであった。


ホモソーシャルな連帯とは、性的主体(と認めあった者)同士の連帯である。(中略) この主体成員のあいだでは、相互を性的客体にしかねないホモセクシュアルなまなざしは、主体のあいだに客体化が入りこむことによって「論理階梯(クラス)の混同」を侵す結果になる。

男に値しない男を男の集団から放逐する表現が、「おかま」――逆に、「おかま」が自分たちの集団に潜在していることの怖れは、自分がいつ性的客体化されるかもしれない、という主体位置からの転落の恐怖でもある。だから、男の集団のあいだでは、「おかま」狩りがきびしくおこなわれることになる。これを同性愛嫌悪(ホモフォビアと言う。


男にとって重要なのは「男であるか、否か」だ。また、男を「男にする」のは、他の男たちである。「男でない者」が、女であれば男が「男になる」ための手段として、あるいは「男になった」証明の報酬として扱われる。「男になりそこねた者」であれば単に排除される。

「所有(モノに)する」とはよくも言ったものだ。「男らしさ」は、女をひとり自分の支配下に置くことで担保される。「女房ひとり、言うこと聞かせられないで、何が男か」という判定基準は今でも生きている。女を自分たちと同等の性的主体とはけっして認めない、この女性の客体化・他者化、もっとあからさまに言えば女性蔑視を、ミソジニーという。

男と認めあった者たちの連帯は、男になりそこねた者と女を排除し、差別することで成り立っている。ホモソーシャリティが女を差別するだけでなく、境界線の管理とたえまない排除を必要とすることは、男であることがどれほど脆弱な基盤の上に成り立っているかを逆に証明するだろう。

男も女もミソジニーを身に付けている


初めてこのテキストを読んだとき、幾ばくかの不愉快な感情*3と、胸のすく思いとを同時に味わった。僕は思春期の頃から、自分が「男であること」との折り合いの付け方にずっと悩んできた。上の世代の男性的美学はおろか、同世代の男友達とも価値観をなぜか共有できない、共感できない。自分の性を肯定的に受け容れられない。性別二元論の元では、「男」でない=「女」ということになるが、僕の場合は「女」でもなかった。一体自分は何者なのか?
ジェンダーという概念を知ったとき、僕はその暗闇から抜け出すことができたのだが、この文章はその時と同じくらいの衝撃を与えてくれたように思っている。


「男らしさ」「女らしさ」という理想、あるいは「聖女」と「娼婦」のように分断された女性像。こうした価値観は男にとって都合よく作り上げられたものとして存在し、今なお根強く社会を支配する*4。女性を縛る鎖として機能するのはもちろんであるが、実は男性自身をも抑圧している。草食系男子などは、その抑圧から逃れたいという思いの表れであるには違いない*5
だがそれは文化や社会が作り出す規範であって、本能や自然の摂理のような絶対普遍の真理などではない。つまり、「現状の社会のありようはおかしい!」と言っても良いのである。


フェミニストとは、みずからのミソジニーを自覚してそれと戦おうとしている者のことである、と上野は言う。一方で男の中にもまた、(男の)自己嫌悪と戦う者が現れ始めていると。

かつて僕は、自分が「じゅうぶんに男でないこと」を呪い、またある時期は「男であること」への自罰感情に囚われていた。いまはそんな自分をまるごと引き受けて、先へ進むしかないと思えるようになった。ミソジニーの苦しさから降りるには、そこから始めるしかない。


女ぎらい――ニッポンのミソジニー
上野 千鶴子
紀伊國屋書店
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*1:男性同性愛

*2:異性愛は、責任ある自由民の男性の義務であり、少年愛のように高貴な権利ではなかった。ただ、いずれも「貫かれる者」の快楽は重視されない。

*3:そのことは上野自身も認めている。「書き手にとってと同様、本書は多くの読者にとって、女にとっても男にとっても――とりわけ男にとって――不愉快な読書経験をもたらすだろう。なぜならそれは多くの男女が目をそむけていたいことがらのひとつだからだ。」(あとがき)

*4:もちろん女側の共犯関係もあり、一方的な被害者であり続けたわけではないが。

*5:ただし、そうした若年層の男たちがミソジニーを捨てられているわけではない点は注意が必要。