「差別」じゃなく「区別」だ! 問題

関連テキストをまとめました。強調の一部は引用者によるもの。


差別と区別 - Yahoo!知恵袋 

ベストアンサーに選ばれた回答
assocyさん

本来、区別と差別はそれこそ区別すべきものですし、その理由については、多くの方が説明済みですが、問題は、「区別」という言葉の使われ方です。


「区別によって一方のグループが高い頻度で不利益をこうむる場合や差別、分類自体に根拠が乏しく偏見による疑いが強いものは差別」というご回答があり、僕もそれに賛同するものですが、質問者の方が指摘してくださっているのは、不利益をこうむる側からの異議申し立てに対して、「これは区別だ」とする開き直りがあるという問題なのです。


差別ではないかという申し立てには、「自分たちが高頻度で不利益をこうむっている。」、「いくつかのグループの一部に利益が集中している、逆に不利益が集中している。」…こう言う主張が含まれているのですから、差別であることを否定するためには、そのような利害の偏りのないことを証明しなければなりません。


ところが「『区別』なのだから問題はない」と主張する人の多くは、しばしば、この努力を怠りただひたすらグループ分け自体には問題がないと、まぁ、それ自体は当たり前のことを、争点とは違うことを言い募るばかりなのですから、これはまったく質問にあるとおり、開き直りであり差別であるといわなければなりません!


つまり、言葉の意味の一般的な検討として、区別と差別の関係を論じる場合には、勿論「区別」と「差別」とは同じではないという説明は正しいのですが、差別に対する異議申し立てにおける争点は、グループ分けそれ自体の是非ではなく、分けた結果利害の偏りが生じたかどうかですから、差別に対する異議申し立てに対して、この争点を逸らして、「分けるだけなら問題ない」としか言わないのは、やはり差別なのです。

差別する側が自分を合理化する決まり文句を見てみる | Afternoon Cafe 

決して反撃を受けることのない相手を一方的に弄りたい、しかし差別主義者として糾弾されたくない、自分の言葉に責任を持ちたくない…。典型的な「いじめ」る側の発想ですよね。

(中略)

「いじめじゃないです、遊んでただけです。からかっただけなのにマジギレするなんてカッコワルイ。こんな程度のことでいじめだなんておかしいんじゃないの?そんなんだから周りから嫌われるんだよ、意地悪されても仕方ないよ。だってしょうがないじゃん、ホントのことでしょ?あ、これ俺が言ってるんじゃないよ、皆が言ってるんだよ。ところでいじめってひどいね、絶対許せない」


「いじめ」を「差別」に換えても文意は通りますね。

差別はなぜ許されないか――区別との区別 - on the ground 

ドゥオーキンは、「平等の処遇(equal treatment)」と、「平等な者として処遇されること(treatment as an equal)」とを、分けて考えます。そして、市民の基本的な権利は後者にあり、前者は派生的な権利であると言うのです。


派生的とされる「平等の処遇」とは、「ある種の機会や資産や負担を平等に分配される権利」を意味します。それに対して、より基本的とされる「平等な者として処遇されること」は、「他のすべての人々に対すると同様の尊重と配慮をもって処遇される権利」のことです。5歳児と成人は同じ人間として「同様の尊重と配慮」を傾けられますが、個別に配分される「機会」や「負担」、つまり権利と義務は同じではありません。そして、認められる権利や課せられる義務の個別内容が異なるからといって、それが子どもと成人の基本的に対等な関係を否定するものでないことは、多くの人が認める通りです。


この議論を介すると、区別と差別の違いをどこに見るべきかは、より明確になるのではないでしょうか。子どもと成人を区別して、個別の権利・義務の内容(取り扱い)に差を設けることが、「平等な者として処遇されること」に反しないように、差別に陥らない区別はあり得ると考えるべきでしょう。根本的な差を設けず、対象それぞれの諸特質に合わせた形で(A. センに倣って言うなら、capabilityを最大限にするように意図して)処遇に差を設けることは、差別とは分けて考えてよいのではないか。


そして同じ議論によって、差別の意味も明らかにすることができます。すなわち、複数の対象を「平等な者として処遇」しないこと、それぞれに「同様の尊重と配慮」を与えないことが、差別なのです。動物は市民と「平等の処遇」を与えられないだけでなく、「平等な者」とも認められません。


差別が不当であるか否かは、差別される対象間の共通性がどの程度大きく・重要であるかについての感覚ないし合意と、差別が行われる状況にどの程度の公的性格が伴うかの、2つの基準によって概ね左右されるでしょう。前者については、虫よりも哺乳類の権利を云々する人が多いことから、明らかです。後者は、全く個人的な財産から拠出して分配する場合と企業や政府が支出するケースとで、どちらにより偏りが許されるかの比較を通じて、容易に推測されます。


以上のように考えると、(不当な)差別がなぜ許されないのかは明らかです。社会が許さないと決めているからです。たとえ建前であろうと、現代社会は全ての人々を「平等な者として処遇」することを決めています(国民か外国人かによる差は、「平等の処遇」の水準の差に過ぎません)。差別は「平等な者として処遇される」権利を侵害するものであり、社会に対する挑戦です。人が差別を差別と認めないのは、社会に対する挑戦意図を隠匿するためなのです。

女ぎらい――ニッポンのミソジニー: 上野 千鶴子

比較するということは、比較できる、ということでもある。比較できるということは、比較可能な共約可能性を、ふたつの項が持っているからである。ジェンダーや身分の差異が、変更不可能な運命として受けいれられているところでは、「区別」はあっても「差別」はない。「人として同じ」という共約可能な「分母」が生まれたことによって、「差別」を不当だと感じる心性が生まれた。性差別そのものはそれ以前からなかったわけではないが、「近代」は、比較によって逆説的に性差別を強化した。

したがって、性差別を告発するフェミニズムは、近代の直接の効果として誕生したのだ。だからこそ、女性学のパイオニアだった今は亡き駒尺喜美(こましゃくきみ)は、「『区別』が『差別』に昇格した」とこの変化を歓迎したのだし、それを苦々しく思う人たちは、つねに「差別」を「区別」におしもどそうとする。
(P.136)


女ぎらい――ニッポンのミソジニー
上野 千鶴子
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