國分功一郎氏「たべもののポリティクス」講演メモ──食をめぐる各種論点と読書案内


知の航海2012 ぐるぐるエネルゴロジー たべもののポリティックス - 生活工房


三ヶ月ほど前になりますが、掲題の講演に参加してきました。たいへん有意義な内容で、聴講中たくさんメモを取りました。今後、食について考えるうえで大きな指針になりそうです。(國分さん、ありがとうございました!)

日時:2013年03月17日(日)
場所:世田谷文化生活情報センター 生活工房


というわけで、当日配布されたレジュメをベースに、印象に残った話題を整理しておきたいと思います。以下、書籍からの引用も適宜補足しつつ。

消費/浪費

『暇と退屈の倫理学』で提示された対概念。ジャン・ボードリヤールが論じたのが最初だが、誰も注目してこなかった(『消費社会の神話と構造』)。ボードリヤールによれば、人類はずっと「浪費=贅沢」してきた。ところが、つい最近になって人類は全くちがうことをはじめたという。それが「消費」である。

浪費
必要を超えて物を受け取ること、吸収すること。限度に達することで満足をもたらす。贅沢の条件。
消費
物に付与された記号や観念や意味が対象である「観念論的な行為」。限界がなく、けっして満足をもたらさない。

『暇と退屈の倫理学』第四章


消費行動においては、人はものを受け取っていない。情報や記号を受け取るにすぎないので、満足することがない。その考察を出発点として食について論じるとき、次のことを考えなくてはならない。

  • ものを受け取るとは何か?
  • うまいとはなにか?

哲学における食

哲学の領域において、食というテーマが分析の対象となること自体が稀である*1。そんな中、食の問題を扱った、あるいは参照できそうな思想家たち。

シャルル・フーリエ

フーリエにとって、食は文明世界の堕落そのものに直結する問題であった。主に文明人の食べ過ぎ、また、文明社会で好まれている食が身体に悪影響を与えているという事実を取り上げている。中国には「医食同源」という広く根付いた考え方があるが、西洋知識人として食の問題について論じた数少ない人物のひとり。

ロラン・バルト

バルトは、フーリエ論を食事の話から始め、文明社会における食の位置を論じている。社会は食に対する一人一人の偏愛の格子を保障すべきである。また、食が人間精神に大きな影響を与えるという思想。

人間関係や住居環境に比べ、食が精神に与える影響はあまり研究されていないのではないか、と問題提起を行った。

カール・シュミット

あらゆる領域において、究極的な区別(Ex.美学=「美/醜」、道徳=「善/悪」、etc…)が存在するという。食における究極的区別とは、言うまでもなく、「うまい/まずい」*2。では、うまいとは何なのか?

ファスト・フード/スロー・フードについて

ポール・ロバーツ

『食の終焉』は、現代社会における食の問題について論じるうえで基本書ともいえる一冊。スローフードについての言及もあり。宮台真司氏も指摘するように、スローフードの思想が社会運動に大きな影響力をもつようになっている*3

食における「情報量」という観点

國分氏のブログ記事より(一部改行位置を改変。強調は引用者)。

俺の考えではファスト・フードは、「速い」のではなくて、これも「情報がすくない」。つまりファスト・フードは正確には、インフォ・プア・フードと呼ぶべきです。たとえば、牛脂の味しかしない。歯ごたえになんの変化もない。処理すべき情報が少ないメシだから、すぐに食べられるわけです。
要するに、ファストであることは、そのメシの存在様態の結果である。ファストであることを結果として生み出す原因は、インフォ・プアという契機にこそにある。(……)食べることがスローになってしまうのも、そのメシの存在様態の結果。スローであることを結果として生み出す原因は、インフォ・リッチにこそある。だいたい、要素の少ない食事、情報量の少ない食事を、スローに食べてたって仕方ない。これからは、ファスト・フードとスロー・フードの対立を脱構築するインフォリッチフードの概念が重要でしょう。

ブランショ、スピード、情報量、あと少しメシの話|Philosophy Sells...But Who's Buying?

スピノザの定義論

定義は事物の内的な本質を明らかにしなければならないが、そのためには

  1. その事物の本質のかわりに特性を以て定義することがないようにしなければならない。
  2. 定義は原因をふくまなければならない。


事物はその原因によって定義しなければならず、原因から生じる結果によって定義してはならない。これは重要な論点である。なぜなら、誤った定義をもとにした「スロー」を連呼しても、問題の本質はなにも見えてこない──情報量が少ないものをゆっくり食べても何の意味もない──からだ。情報量が多い食事を提供するような社会にならなければならない。それがわれわれの目指すべき方向性である。
→※では、いわゆる「ファストフードの快楽」はどのように解釈すべきなのか? この点については、後日感想に代えて考察したいと思います。

情報量が「質」を決定する

ライプニッツは、波の音を例にあげて以下のようなことを語っている。それはひとつひとつ細かい水の音の集積であるのだが、人間の処理能力ではそれを厳密に細部まで知覚することができず、「波の音」として認識されている、と。この波の音=「質」に相当するようなイメージ。


あるいは、ヘーゲルもまた「量の変化は、質の変化に転化する」ということを言っている。人間の処理能力では「質」としか表現できないが、その実態は情報量のちがいに還元できるのではないか。文学作品や芸術作品についても、その「質」は情報量の差異によって決定されるのではないか*4。情報量という考え方は、質を数値化(デジタルな表現)する可能性を開く。


なお、情報とは一応は以下のように定義できる。

結論にかえて

社会構造の変化
フォーディズム
労働時間外も労働者として管理される社会の到来(=工場の内と外の区別がなくなった)。単一モデルの生産性向上による、高品質・低価格というビジネスモデル。
ポストフォーディズム
いかに高品質の製品であろうと同じ型である限りは売れない。モデルチェンジを繰り返さなければ売れない社会へ。設備投資にお金を掛けられず、労働力の予測も難しい。非正規雇用は、現在の消費=生産スタイルがこれを要請してしまっている。(『暇倫』第三章の論点)


現代のポストフォーディズム体制は生産者の問題であると同時に、「(モデル)チェンジした」という情報そのものを買う消費者の問題でもある。そのような消費行動を繰り返すわれわれは、満たされることのない退屈しのぎを延々と続けることになる(社会変革をおこすためには、そこまで考えなければならない)。贅沢こそが社会を変えるのである。


バルトが引いたフーリエの言葉。

「我々が間違っているのは、そう信じられたように、あまりに欲望することではなく、あまりにわずかしか欲望しないことだ……」

『サド、フーリエ、ロヨラ』p.5

今後の課題とその他の論点

うつ病と食

うつ病患者の食事が酷い(菓子パン中心など)という報告*5

うつ病=セロトニン不足」「統合失調症=ドーパミン過剰」
このような単純な図式は真実であろうか。本書の結論から言えば,「脳科学」「神経科学」だけで精神疾患を捉えることは,事実上不可能である。脳はあまりにも複雑であり,精神疾患要素還元主義で説明し尽くすことはできない。
それでは,精神疾患脳科学で捉えることが無意味かというと,そんなことはない。近年の脳科学神経科学には長足の進歩があり,精神疾患についてもずいぶんと「部分的」に明らかになっている。「部分的」ではあっても,精神疾患の本質を捉えるヒントや新しい診断法や治療法に結びつく知見が次々に見つかっている。

『精神疾患の脳科学講義』Amazonの内容紹介より


ここでもやはり、情報量(=身体にたいする刺激因子)が極端に少ない食習慣がうつ(をはじめとした各種疾患)の一因となっているのではないか? 栄養素の問題はむろん軽視できないが、要素還元主義的に捉える限り、より本質的、あるいは実践的な原因まで遡れない。


スピノザは主著『エチカ』のなかで「人間をより多くのしかたで刺激を受けるようにするものは、よいものである」ということを言っている。

第四部 定理三八
人間の身体が多くの仕方で刺激されるようにするもの、あるいは身体が外部の物体にまでさまざまな仕方で刺激を及ぼすようにさせるもの、それは人間にとって有益である。

『エティカ』p.353


たとえば、「味わう」とは多様な刺激を受け入れることであり、また刺激に慣れていくことで受容の範囲や許容量を広げ、より豊かに「味わう」能力が身についてくる。そのためには適切な訓練が必要である。

腹八分、ダイエット、絶食

野生動物は毎日エサにありつけるわけではないため、毎日エサを与えるとかえって弱ってしまう。そうした理由から、旭山動物園ハヤブサには、定期的にエサを与えない時期を設けるとのこと。おそらくこれは人間にとっても応用できる考え方。ラマダンなどの断食行事の行為とは、文化の力で食事を遠ざける知恵ではないか。

どういうものを、どれくらい食べるかという問題。食との適当な緊張関係をもっておく必要性。また、「痩せている」とは、基本的に悪いニュアンスを含む形容詞であり、美しさを形容するための新しい言葉が必要。

栄養失調としての肥満

「たとえばルイジアナ州では、住民の二人に一人がフードスタンプ受給者なんです」

私の頭に、ジャンクフードざんまいだった公立小学校のランチ・メニューが浮かんだ。
貧困層の受給者たちの多くは栄養に関する知識も持ち合わせておらず、とにかく生きのびるためにカロリーの高いものをフードスタンプを使って買えるだけ買う。貧困層のための無料給食プログラムに最も高い頻度で登場する「マカロニ&チーズ」(1ドル50セント)を始め、お湯をかけると一分で白米ができる「ミニッツ・ライス」(99セント)や、味の濃いスナック菓子(一袋99セント)、二か月たってもカビの生えない食パン(一斤1ドル30セント)などが受給者たちの買う代表的な食材だ。
これらのインスタント食品には人口甘味料や防腐剤がたっぷりと使われており、栄養価はほとんどない。
その結果、貧困地域を中心に、過度に栄養が不足した肥満児、肥満成人が増えていく。健康状態の悪化は、必要以上の医療費急騰や学力低下につながり、さらに貧困が進むという悪循環を生みだしていく。

『ルポ 貧困大国アメリカ』pp.25-26


貧乏人こそ、調理器具もほとんど必要ない(「受給者のほとんどは、家に調理器具がなかったり、キッチンそのものがないケースも少なくない。pp.25-26」)、カロリーが高いジャンクフードを食べざるをえない。政府の新自由主義政策による予算カットの影響で、学校側は安価なジャンクフードに頼ることを避けられない。学校給食という巨大マーケットを狙うファストフード・チェーンも少なくないという。

油(オイル)について

現代の都市社会において、油は敵視されている。日本においては、「油=食べものをつくるための媒介物」というイメージが強いが、たとえばチュニジアでは「油=食品のひとつ(調味料)」という捉え方。またドイツにおけるバターは、パンに味を付加するといった日本的な位置づけとは異なり、バターそのものを食べる感覚。ドイツ・フランスへ行ったらバターを食え(美味い)。


油とは非常に繊細な生産技術に支えられており、高度な文明社会にのみ許された食品である。


レヴィ=ストロースは、文化人類学的に調理技術を分析しているが、煮たものは家庭のもので客人には出さない、文明的に洗練されていない、と論じている(下図の「料理の三角形」)。かなり突っ込みどころが多いのだが、もっとも気に食わないのは、「揚げる」が「煮る」に分類されていること。先述のとおり、油は非常に貴重な食品なのであって、それを多量に使用する高度に洗練された調理法が「揚げる」である。分析が不十分、あるいは何らかの偏見があるのではないか?

http://www1.yasuda-u.ac.jp/prof/miyagisi/Image51.gifhttp://www1.yasuda-u.ac.jp/prof/miyagisi/Image50.gif


※なお、上図を参照した宮岸哲也氏の以下のページにおいて、「料理の三角形」を発展させた「料理の四面体」(玉村豊男:1980)、さらには調理法の体系に「コンテクスト」という要素を取り入れた独自のモデル「食生活の構造図」が紹介されています。
食生活の構造に関する研究−比較文化的研究の枠組みとして−宮岸哲也

ケチャップの侵略

アメリカ的な味覚。グローバリゼーションの影響で、世界のいたる場所で「ケチャップの侵略」ともいえる状況がおきている。と、中沢新一氏がどこかで言っていた。

野性味や酸味

肉は本来生臭いもの、また果物の酸味も日本と海外とではまったく異なる。両者ともに品種改良によって抑えられる傾向。

モノ・カルチャーの問題

最近人気のチリワインだが、70年代の軍事政権において、フリードマンの影響下、新自由主義経済政策(の実験)によって生み出された産業である。飲みながら複雑な気持ちになる。

原釜漁港(福島県相馬市)の問題

原発事故の影響。放射線量の測定では可食部のみを使用するため、毎回大量の魚を三枚におろすという非常に手間の掛かる作業を強いられている。また農産物にせよ、何重もの検査体制を取っている。放射線量の検出にかんしていえば、「福島の農産品がもっとも安全だ」というのが現場の人たちの本音。國分氏自身、その現場に立ち会って感銘を受けた、と。しかし一方で、その事実や実感をもとに「食べられますよ」と言った瞬間に嘘っぽくなってしまう現実がある。そこに言葉の限界を感じる。


これまでと同じ場所に住み続けること、特定の食品を食べること……。あらゆる状況において決断を迫られる状況になってしまっている。楽観的な気持ちと、悲観的な気持ちが共存している。


質疑応答

デジタルとはどういうことか

もう少し補足がほしい。(参加者)


客観的数値で表現できるということ。ロハススローフードもまた、「自然がいいよね」といった曖昧で情緒的なイメージ先行で語られ、それこそ消費社会的なイメージによって動いている。消費社会礼賛の立場と対話ができない。自然食の新しい語り方が必要とされている。


森田真生氏の「自然が計算を行っている」という研究に注目している。「計算とはなにか」が定義されたのは1930年代頃と、つい最近のことだそう。もっとも広い意味で計算というものを考えていくと、「論理=計算」という図式が成り立つ。拡張された計算概念をもとに世界を見ると、あらゆる場所で計算が行われていることが見えてくる。このことを記述しようという試み。


将来的には、数理的なアプローチで自然が記述できるかもしれない。実感の科学的記述(エビデンス)可能性。

#259 数学で心と身体を整える - 森田 真生さん(東京大学理学部数学科) | mammo.tv

料理の三角形について

揚げ物(deep-fried)は、西洋では多めの油でもってフライパンで調理する手法のこと。日本の天ぷらのような揚げ物とは、そもそも認識が異なるのではないか。また、電子レンジはいったいどこに分類されるのか?
栄養学では「湿熱調理/乾熱調理」という、水分をとばす観点からの分類がある。揚げ物は乾熱調理、電子レンズは湿熱調理だ。(以上、会場の参加者より)


その分類の方が汎用的かもしれない。レヴィ=ストロースに教えてあげましょう!

訓練の必要性

マクドナルドを本気で美味いと思う感覚もある。情報処理能力に見合ったものを美味いと感じるのでは?(参加者)


楽しむためには訓練が必要だ。どんな快楽でも訓練を前提としている。

排泄の視点の必要性

一般論として、食について考えるとき、摂取する視点ばかりが論じられ、「排泄」という契機が欠落しているのではないか?
東洋医学において、「新陳代謝=消化+排泄」の図式を主張している人物がいる。消化にエネルギーを使い過ぎてしまった場合、排泄がおろそかになり、心身疾患の直接の原因となる、という考え方。ラマダンもそのような観点から説明することができそう。排泄の観点を重視するとき、食べない、という状態は必ずしも我慢ではなくなる。「食べない快感」というのもありうる。(以上、筆者より)


巨大化した鮭(あるいは牛?)が発見されて、調べてみたら抗生物質による消化酵素が死滅が原因だったという話がある。つまり、エネルギーが消化にほとんど使われず、筋肉等の発育に回されたという研究報告(ただし抗生物質は良い菌も殺すので副作用はあり)。そのことから考えても、動物が消化にエネルギーを使っていることは間違いない。


根本的に、人体にとって「食べもの=異物」。チャップリン『黄金狂時代』には、靴を食べたり、魚の骨に見立てた釘を食べてみせるシーンが出てくる。また、キャベツは光合成ができなくなった奇形品種。


排泄については考えたことがなかったが、重要な要素だと思う。

その他、興味深かったキーワード
  • 野糞ばっかりしてる研究者がいる。以前、当会主催でワークショップをやった(排泄に関連して主催者より)。ノグソフィア
  • 安富歩氏は、人糞の無害化の弊害や、火葬による生態秩序破壊の問題、将来的な堆肥の不足を主張している。
  • 有機農法だけで今後やっていけるかは疑問。農業もまた技術(テクネー)であり、自然破壊。「工業の開始したときより、農業の開始したときの方が自然破壊の度合いが高かった」という説すらある。ただ、その程度の破壊は自然(フュシス)が許容してくれたから農業をやって来ることができた。技術と自然のバランスを論じていくことが大事。
  • 自然との非敵対的矛盾(by中沢新一):「いわばヘーゲル弁証法的な関係ですね。何でも調和させてしまうやり方は、お互いが持っている矛盾を対話しながら練り上げていくのとは違って、闘ったり議論したりするのは嫌だからとりあえず避けて(調和させて)しまうというだけで、決して前には進みません。むしろ抑圧的になってしまいます。」(『哲学の自然』p.216)

感想

長くなるので、一旦ここまで。感想は後日、別エントリーの形でまとめたいと思います。

*1:同様に十分に論じられていないテーマとして、國分氏は「性」の問題を挙げていました。

*2:「半分くらい冗談です」と國分氏はコメントしていましたが。

*3:「どこでボタンをかけ違えたのか」 宮台真司氏講演 ~現場からの医療改革推進協議会より|ロハス・メディカル

*4:念のために付言しておけば、ここでは非常に広い意味で「質」や「情報量」という概念を用いていることに注意。

*5:「最新精神栄養学 うつを食事で改善する!?」、2012年9月12日放送 NHK『あさイチ』