悲しみの継承。その方法論としての観光@『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』


本書のタイトルにある「ダークツーリズム」とは何でしょうか。観光学者の井出明氏は、この新しい観光形態の意義について次のように説明しています。

ダークツーリズムとは、戦争や災害といった人類の負の足跡をたどりつつ、死者に悼みを捧げるとともに、地域の悲しみを共有しようとする観光の新しい考え方である。この新しい観光の概念は、学問的には一九九〇年代から研究が始まり、初期の頃は第二次世界大戦に関連した地域が多く取りあげられてきたが、近年、ニューヨークのグラウンド・ゼロなどにも研究の幅が広がりつつある。日本では沖縄の戦跡や広島の原爆ドームへの修学旅行など、学習観光の一環として馴染みの深い旅行形態であろう。

ただ、ダークツーリズムの根源的な意義は、悲しみの継承にあるため、学習そのものが目的ではないことにも注意しておきたい。訪問地に存在する悲しみを知ることで、学びは必然的に達せられることになる。したがって、ダークツーリストを志すとしても、はじめから何か学ばなければならないという気負いを持って旅立つ必要はなく、自分の心のひだに触れた何らかの事件や事象があれば、「その場を訪れたい」という素直な気持ちにしたがってよい。

『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』p.53


広島の原爆ドーム見学が好例ですが、新しい観光とはいっても、じつは案外身近なものとしてぼくたちはすでに体験してきているようです。「人類の歴史は、教科書に名前が載るような偉人や英雄だけでできているわけではなく、虐げられた人々もまた歴史をつくってきたこと(p.53)」を体験、体感できるような機会。それがダークツーリズムなのだと。


井出氏の記事ではまた、国内外のダークツーリズムのスポットがいくつか紹介されています。なかには比較的身近に感じられる場所や事件もあったりしてハッとしました。

津波災害
バンダアチェインドネシア
自然災害
淡路市島原市洞爺湖町/神戸市(日本)
水俣病
水俣市(日本)
エネルギー革命の跡──旧炭鉱街
夕張市田川市大牟田市荒尾市(日本)
ハンセン病の無知と大罪
東村山市合志市(日本)
差別の構造──ユダヤ人迫害
ベルリン/ザクセンハウゼン(ドイツ)
日本の戦争の意味──富国強兵策の帰結と両義性
広島市呉市長崎市(日本)
性と人権──日本からの売春婦輸出。[http
//ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%86%E3%81%8D%E3%81%95%E3%82%93:title=からゆきさん]:サンダカン(マレーシア)/ゲイラン(シンガポール
在日コリアンのルーツ──赤狩り
済州島(韓国)
旧南洋町──旧ドイツ帝国の植民地、日本の委任統治
サイパンテニアン北マリアナ連邦)/コロール(パラオ共和国


津田大介氏が自身の記事で言及するように、「社会科見学」といった方が感覚的に馴染みやすいキーワードかもしれません。ただ、ぼくたちは「観光」という言葉に商業主義的でどこか軽薄な響きを連想する一方で、「社会科見学」というと無味乾燥でつまらないお勉強(=楽しむべきでないもの)というイメージを抱いてしまう。このことはおそらく、日本の資料館がドキュメンタリー性に比重をおき、感情に訴えるアプローチを抑制する傾向にある、という本書の指摘とも関係があるのでしょう。「ダークツーリズム」という概念は、その中間というか、両者の要素を持ち得る方法論──軽薄な好奇心から現地を訪れるのだが、結果的にそこで何かを学んでしまう仕掛け。そのような商業主義との結託──といえそうです。


2013年時点のぼくたちにとって、チェルノブイリや福島といった場所はじつに生々しい記憶(とイメージ)とともに存在しています。それだけに知らず知らず語ることを躊躇ってしまう感覚がある。他方で、上記に例示されたアウシュビッツや公害都市へと視線を移してみれば、その場所のイメージも、知識も、かつて学んだはずの記憶も、われながら情けなくなるほどに持ち合わせていないことに気付きます。裏を返して、そこに積極的な要素を見出すならば、先入観がないために学びや語ることへの抵抗感が薄いことにも気付くのです。そしてそのことは、10年後、20年後に福島へと向ける視線を考えるにあたって、大きなヒントになるのだろうなとも。

「見たいもの」という先入観が見えなくするもの


Ari Hatsuzawa Photography - 写真 | Facebook


ところでチェルノブイリ本を読んでいる最中、ぼくは一冊の本を思い出していました。初沢亜利氏の『隣人。 38度線の北』北朝鮮の人々の日常を撮った写真集です。チェルノブイリ本にも登場する開沼博氏との対談記事で、初沢氏は写真集を企画した経緯についてこんなことを語っています。

北朝鮮の写真集は実はこれまでに何冊も出ているんです。僕自身も調べて取り寄せるまではその存在を全く知りませんでしたが。はじめて見た時はかなり驚きましたよ。テレビや新聞とまったく同じ方向性で作られていたので。もちろん、批判的でなければ出版ができなかったのかもしれませんが、フリーランスのフォトジャーナリストが、大手メディアと100%同じ論調というのは気持ちが悪い。フリーであるからこそ、自分の感覚に忠実に伝えるべきではないでしょうか。「北朝鮮はこういう国」という前提で撮影していることがよくわかる写真集ばかりでした。 被災地に行こうが北朝鮮に行こうが、目の前に広がっているのは日常以外の何ものでもないんです。

なぜ、北朝鮮や被災地の日常を切り捨てるのか? 日本の報道から抜け落ちた彼らの素顔に迫る 【写真家・初沢亜利×社会学者・開沼博】|対談 漂白される社会|ダイヤモンド・オンライン


あるいは、写真集巻末の滞在記でも。

その後も仮想敵として継続して要請されてきた「イメージとしての北朝鮮」。もはやそこには人々の当たり前の生活すら存在しないかのように、極悪非道の国家像が今や全日本人の頭の中にこびり付いてしまった。

この写真集こそが北朝鮮の真実である、というつもりは毛頭ない。真実とはそれ自体多面的なものであり、どこに眼差しを向けようとも、それらは無数の真実の一部でしか有り得ない。

『隣人。 38度線の北』pp.166-167


ここで語られている問題意識は、東浩紀氏が繰り返し強調する主張とも重なるように思います。すなわち、ある特定のパースペクティヴからみた世界像──チェルノブイリ原発事故の放射能被害と、そこで暮らす人々の悲惨な姿──ばかりが語られてしまうという問題です。放射能被害はけっして軽視できるものではないし、「悲惨」という認識はまったく間違っていません。けれども、それと同じくらい重要な別の側面もまた存在する(それも複数)ということを、ぼくたちはどうしても見逃しがちです。「チェルノブイリは今も動いており、そこに他者が常に関わり続けている現実がある。『自分の中で事前に用意してきた、変にいじられていないチェルノブイリ像』を壊されるのは当然のことだ。そして、その体験は恐らくそこに来た他者が、それ以後もチェルノブイリを考え続ける大きなきっかけとなるはずだ。(p.138 開沼)」


「東浩紀チェルノブイリ本について語る(ニコ生)」では本には掲載されてない話題も出ており、併せて聞くのも面白いです。たとえば、役人の葛藤の話。道端で放射線量を測定していると、それを止めるでもなく、しかし警戒した様子でウクライナ政府の役人がすぐ傍まで来て眺めているのだとか。そしてその光景が福島でもまったく「再現」されている……という話。──さらにこれは、初沢氏が語る北朝鮮での案内人の様子ともどことなく似ているのです。もちろん、北朝鮮チェルノブイリの話はそれぞれまったく無関係なのですが、語りが限定されている場所でおこる奇妙な一致に、偶然以上のなにかを感じてしまいます。


チェルノブイリ本に話を戻せば、単純に知識不足を補う情報も多数あり勉強になりました。電力不足のために、チェルノブイリ原発は事故のわずか半年後に再稼動*1されていたことや、その後、'00年には発電機能は停止したものの、未だ現役の送電基地・ハブとして重要な役割を担っていること。さらには、「耐用年数の問題もあるため、将来的には最大七ヶ所で原発の新設が予定されている(p.72)」なんて状況とはまったく知らず、衝撃を受けました。エネルギー問題の難しさを思い知らされます……。


今後、原発をめぐる問題について考えるための重要な資料のひとつとなるのはもちろん、もっと大きく、人類史上の「悲劇」というテーマについても新たな切り口を与えてくれる一冊だと思います。

*1:事故を起こしたのは四号機。再稼動されたのは一号機。