対話の限界と、その先にある新しい民主主義@『一般意志2.0』

東浩紀氏の新著『一般意志2.0』を読みました。
本書は、18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーが提唱した「一般意志」を、現代の情報社会を背景に再解釈(二次創作)し、民主主義の新たな可能性を問い直した意欲作です。頭の整理のため、要点をまとめておきます。

「夢」の序文

グーグルやツイッターからルソーを読み替え、「一般意志」の新しい定義に迫る。
そして、そのはてに、熟議もなければ選挙もない、政局も談合もない、そもそも有権者たちが不必要なコミュニケーションを行わない、非人格的な、欲望の集約だけが粛々と行われる「もうひとつの民主主義」の可能性を説く。
(序文より)


選挙でわれわれの代表者を選ぶこと、十分な熟議・コミュニケーションによって他者と折り合いをつけること。現代の民主主義における常識、あるいは理想とされる要素が不要になる未来。そんな可能性を巡って、物語は展開していきます。

「一般意志」とはなにか

著者によれば「ルソーの考えたこと」とは、以下のようなものだと言います。

  • 人々の間で社会契約が結ばれ、社会(共同体)ができる。その結果として、個人の意志の集合体「一般意志」が生まれる。共同体の主権者はこの一般意志である。市民は一般意志に絶対に従わなくてはならない。
  • 政府は一般意志を執行するために権力を与えられた暫定な機関にすぎない。だから、人民はいつでもその首をすげかえることができる。
  • 一般意志とは別に「全体意志」が存在する。全体意志は所謂世論のことである。人々の意見表明、コミュニケーションによる合意によって形成される。
  • 一般意志とは、人々の無意識を集めたような概念で、一定数の人間がいれば、いかなるコミュニケーションがなくても、勝手に存在してしまう「モノ」である。したがって、世論とは決定的に異なる。
  • 一般意志(一般化された意志)と全体意志(みんなの意志)、いずれも複数の個人の意志「特殊意志」の集合である点は変わらないが、前者が決して誤らないのに対して、後者はしばしば誤ることがある。


このあまりに抽象的な概念ゆえに、一般意志は現在まで正しく理解されて来なかった。一般意志とはあくまでも民主主義における理念・努力目標だとされ、いかに全体意志を一般意志という「理想」に近づけるかを作り上げるかということに腐心してきた。それが民主主義の歴史であり、そのためごく当然に、丁寧なコミュニケーション(熟議)による合意形成が重要だと考えられてきた。


でもその解釈は間違っていたのではないか。ルソーが『社会契約論』を発表してから今日まで、一般意志とは実際には存在しない神秘的な概念だとされ、まともに検証されてこなかった。一方で、現代の情報技術の急速な進化によって、「無意識の可視化」*1は実現されつつあるのではないか。そしてそれこそが、ルソーの提唱した一般意志なるものに相当するのではないか。
そのように考えたとき、現代の感覚で翻訳すれば、一般意志とは、情報環境に刻まれた行為と欲望の履歴(データベース)のことである。


これが東氏の主張です。

「諦め」の先にある未来

情報技術によって可視化された人々の無意識。それを政治、社会の意思決定の場でも積極的に利用すべきだと著者は言います。


情報技術の発達・グローバル化で複雑になり過ぎた僕たちの社会は、「議論の落としどころを探れない他者」で溢れている。そのこともまた明らかになっています。民主主義を考える時、僕たちはごく常識的に、対話による相互理解がともかく大事だと考えています(対話の重要性に関しては、以前ブログにも書きました )。

しかしながら、これまでの民主主義が「理想」としてきたような社会――人々がみな普遍的な価値観を共有し、理性的で「規範的なコミュニケーション」を心がけるような、そんな理想的な民主主義の空間、政治的コミュニケーション。そんなものは到底実現できないのではないか?


またそうした理想を目指せば、おのずと各個人が関われる領域は狭くなり、ハードルは極端に高くなってしまいます。ある場面/ある分野では選良・優秀な専門家であったとしても、また別の場面では大衆である、という二面性を誰しも持っているわけです。「非当事者や不勉強な者(シロウト)は無責任に口出しするな」という規範が強化されていくほどに、個別の政策議論は閉鎖的になりがちだし、どんなに個別の議論が充実したとしても、社会全体の中での優先順位をどうするのかという問題が残ります。


著者が先の主張する裏には、こうした背景があるわけです。複雑になりすぎた社会の中で個人が関われる能力の限界、また人間の理性の無力さ・無意識の欲望への抗いがたさ(例えば、放射能に対する恐怖心を持つ人々の存在)を認め、それを「制約条件」、「前提」として社会のあり方を考えるしかなく、また各個人が「無責任に/相応の影響力で」意見を表明できる仕組み(問題の当事者ではなくても、社会全体の利害関係者として感想を伝える程度の)を作るほかないのではないか。
そうした積極的な「諦め」の先に、新しい民主主義の可能性を東氏は見出しているのです。

わたしたちがいま直面しているのは、国民の望みが政府に取り上げられないというよりも、むしろ、国民が本当になにを望んでいるのか、もはやだれにも(もしかしたら国民自身にも)わからないというさらに深刻な事態である。
(第七章より)

わたしたちは、言葉の力、議論の力を過信することをやめなくてはならない。いくら言葉を尽くしても決して説得できない相手はこの世界に存在し、そしてわたしたちは、彼らともまた共存していかなければならないのだ。
(第一三章より)

そして実装へ

(東氏の解釈では)ルソーは人間の無意識の欲望に従うべきだと考えました。一方、現在の民主主義(1.0)は人々の理性を過信し、啓蒙し、対話による合意形成を重視しています。どちらもあまりに対照的で極端な思想です。そこで東氏は、その両者を組み合わせたモデルを「民主主義2.0」として提案します。ルソーの重視する感情や情念といった「動物的な」部分によって、規範的でリベラルな「人間的な」部分の肥大化を制約し、その両者が衝突する「場」を政治が担う。そのようなモデルです。

政治を市場に還元しようと提案しているのではない。自分たちの欲望に無自覚な社会を作ろうというのではない。そうではなく、いままでの自覚とは異なった自覚の回路が現れているので、それを政治的に利用することを考えようと提案しているのだ。
(第八章より)


実装の具体例として挙げられているのがニコニコ生放送。パネラーによる熟議と、匿名のコメントの「群れ」による監視と絶え間ないフィードバック。コメントによる意見は直接的な決定権を持つわけではないけれど、パネラーはその「空気」を全く無視することはできない。そのような関係性を持つ仕組みですね。東氏が朝生出演時に「ツイッターのタイムラインを会場に流すべきだ」と主張していた理由もまさにこうした信念によるものでしょう。

感想とか

実践的・具体的なイメージを刺激する内容で、非常に面白く読了しました。
『動物化するポストモダン』から10年が経ち、東の社会に対するスタンスもまたアップデートされている。本書を通してそれを読み取ることができるように思います。そこも読み所のひとつではないでしょうか。

大衆の利己的な欲望が市場を介して自動的に調整される「動物的」でリバタリアンな社会(アナーキズム)でもなければ、大衆の即時的な欲望が熟議によって弁証法的に国家理性へと昇華されるような人間的でリベラルな社会でもなく、むしろ、市民ひとりひとりのなかの動物的な部分と人間的な部分が、ネットワークを介して集積され、あちこちでじかにぶつかりあうようなダイナミックな社会(引用者注:そうした未来の社会を目指すべきだ)
(第一二章より)


現在の社会・政治に対する閉塞感は、特定の誰かが悪いというよりも、制度や規範、あるいは常識に部分最適化されてきたことによる諸々のデッドロック、仕組み上の欠陥が原因のように感じます。日本(あるいは旧来的な社会)にいま必要なのは、「前に進むための諦め」なのだろうなあと。その意味で本書に貫かれた思想には強く共感したし、僕自身もこれをヒントに実装を考えていきたいです。


僕はプログラマということもあり、自分の技術が活かせるかもしれないという期待感が無闇に高まりましたw 趣味で高円寺なうという高円寺にまつわるツイートをひたすら収集しまくる俺得サービスを公開中ですが、たとえば高円寺を巡る人々の「無意識」を可視化することも可能かもしれない。実験としてやってみるのもいいですね!(要勉強…)


最後にもう一度本書の序文を紹介して終わります。東氏の次の仕事、「日本2.0」論にも期待を込めて。

本書は日本論ではない。本書の主題は民主主義の可能性にある。だから筆者は、本来ならば、震災など素知らぬ顔をして加筆を進めることもできた。(……)一般意志2.0の実現が、単にルソーのテクストから導けるというだけでなく、また単にこの風土に合致しているというだけでもなく、日本がこれから新しい国に生まれ変わるためにこそ必要とされるのだと、そのように議論の軸足を変えてしまうことだろう。

民主主義は熟議を前提とする。しかし日本は熟議が下手だと言われる。(……)けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちはもはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。

民主主義後進国から民主主義先進国への一発逆転。(……)わたしたちは、この国の情報社会の経験を活かして、民主主義の理念を新しいものへとアップデートできるし、またそうするべきである。本書はその夢のために書かれた。
(序文より)


*1:具体例として、GoogleTwitterAmazonに蓄積された膨大な量のログや、そこから導き出される行動パターン予測などが挙げられている