人々の「不安」が生み出す自己責任社会

渋谷 望(千葉大学文学部行動科学科准教授)氏のレポートを紹介した、以下のエントリーが面白かった。日本の現状を読み解く鍵になると思うので、いくつか引用。


ポスト総中流社会におけるナショナリズムのゆくえ 渋谷 望 - garage sale

そこ(三浦展の『下流社会』)では「下流」の人々の「生態」が、 「上流」との対比のうちに面白おかしく描かれ、私たちはそれを「安全な」見世物として消費しています。

 ところでいま「安全」と言いましたが、この「安全な見世物」を欲する心理は、じつはある種の〈不安〉を隠蔽しているように思えます。現在の社会の「質」的変化とは、この〈不安〉の回帰ということではないでしょうか。自分たちは「下流」ではないと自己規定することによって自己のアイデンティティを保っているのであれば、流通している「下流」像は私たちのアイデンティティを保つために作られた構築物である可能性があります。そうなると「下流」を捏造することで自分たちのアイデンティティを納得している「上流」や「ミドルクラス」こそが問われなくてはならない。


近年では「総中流社会」から「格差社会」への変化という事が度々取り沙汰されるけど、格差そのものは総中流時代にもあった。社会の「質」的な変化の核心部分は、『総中流社会という無階級社会のなかに、階級的他者が回帰してきた』という事ではないかと渋谷氏は述べる。そしてその変化によって生じる、統治者そして大衆たちの〈不安〉について言及していく。

統治者たち:
(「時代の変化」に伴って)くるくる変わる「思想」の変節は、「思想」が内実を持たない方便にすぎないことを暴露するだけではなく、その「思想」によって現存の社会を正当化する統治者の変わり身の早さ(変節ぶり)と、そこに由来する「頼りなさ」、「軽さ」を印象づけます。

 ここから総じて統治者たちの統治者としての無能性、統治能力のなさが露呈するのではないでしょうか。彼らが統治者として振舞うことができたのは、たまたま外的状況のおかげでうまくいっていたにすぎません。

彼らは自己の統治能力の欠如を自覚しそれを何とか自己に対して隠そうとしているのではないでしょうか。

新中間大衆たち:
「排除」を生き残った者は結果的に非正規雇用層を排除する側となるわけですから、いままでとは違うリアリティを生きざるをえません。とすれば彼らはどのように自己を正当化し、排除を正当化するのでしょうか。

 ここでもやはり「成果主義」、「実力主義」といった新自由主義の語彙が動員されます。つまり、自分たちが「勝ち組」なのは「実力」のおかげとして納得しようとしているのではないでしょうか。
(しかしながら、)彼らが「中流」としての自己を正当化する根拠はきわめて薄いといわざるをえません。


社会の「質」的な変化によって、人々が拠り所としていた価値観が崩れた。*1
マジョリティ(中流)は自身のアイデンティティを脅かされる状況ができてしまった。


そこで彼らがとった行動が、「実力主義」といった類の言葉を使い、生存競争から結果的に脱落していった人々を「ニート」と呼んで軽蔑・迫害することだった。更には、「そちら側にいるのは、お前の努力が足りないからで、自業自得でしょ?」と言って、自己責任論を強化させていく。*2


でもそれは本当に個人の問題なのだろうか?
生き残った自分の立場を正当化する為に生まれた排除思想なのでは?


いま、日本の社会はその問題に向き合う時期が来ている。

社会が寛容になるとは、統治者や人々の心が優しくなるということではなく、マテリアルな条件の変容への単なる適応にすぎないのです。しかし同時に「寛容」言説は、このマテリアルな現実の必然性を隠蔽し、自己の倫理的イニシアチヴを前面に出すことができます。こうして自分たちのうちに「不寛容になれる権力」を捏造することができ、統治者/管理者としての自己イメージを持つことができるのです。実際は自分は統治していないのに統治していると思いたい。そうした統治者に対して、統治していると思わせる方法のような解決策が多文化主義的寛容なのです。


そうそう、寛容になるってある種の「諦め」だと思うんだよね。日本の社会は諦める事を「悪い」と決め付けている節があるけど、それがとにかく息苦しい。諦めたら次に進めるのに。もちろん失うものもあるし、見たことも無い問題が出てくるよ。でもそれは仕方ないんじゃない?


現状を受け容れて合理的な判断をするというのは、社会が行き詰ってる今、とても前向きな選択とは思えない。無理なものはさっさと諦める。日本人に必要な「ポジティブ」ってそういうことだと思うけどな。


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*1:ちなみに東浩紀氏はこれを、昨年5月の朝までニコニコ生激論 「民主主義 2.1 (夏)」 において『「タテマエ」を喪失した時代=ポストモダン』と表現した。

*2:ここでは雇用問題を挙げたけど、同じような構図の問題はたくさんあるよね。