小説を読む意義なんてあるんですか?@『恋する原発』 高橋源一郎

いうまでもないことだが、これは、完全なフィクションである。もし、一部分であれ、現実に似ているとしても、それは偶然にすぎない。そもそも、ここに書かれていることが、ほんの僅かでも、現実に起こりうると思ったとしたら、そりゃ、あんたの頭がおかしいからだ。

(まえがきより)


昨春の東日本大震災、および福島原発事故をうけて書かれた小説。AV監督である主人公が震災チャリティーの一環としてアダルトビデオを撮影する、というストーリーが展開していく。物語としては実にくだらない。本編に先駆けて著者が念を押すように、もちろん完全なるフィクションである。アシスタントが宇宙人なんてのから始まって、アホらしくも笑える非現実的設定に溢れている。


僕たちはしばしば「現実を直視しろ」といった言説に出会う。自らそうした言葉を選ぶことさえあるだろう。裏返しである「虚構に生きるべきでない」でも構わない。現実とは“現に起きていること”であり、僕たちは現実を生きている。もし“それ”が虚構のように思えたとしても、誤っているのは僕たちの認識の方であるはずだ。現実は――その定義上――つねに「正しい」のだから。


そうした観点からすれば、完全なる創作物であるはずの本書に対して、まじめに突っ込みを入れるなんてのは馬鹿げている。にも関わらず、なぜかつい「不謹慎だ」と言いたくなる場面に幾度となく遭遇してしまう。あるいは、明らかな誇張、単なる風刺としての描写が、現実に起きたある瞬間の映像にリンクしてしまう。これはつまり、現実とフィクションとの境界が曖昧になっていることの証だろう。震災以降、ネット上では虚構新聞の現実化という現象をとおして多くの人がこの事態に気がついた。それを文学作品という形で描いたのが『恋する原発』だといえる。


虚構の現実化と現実の虚構化。止む気配のない相互の侵食。そんなフィクショナルな世界が僕たちの「現実」である。大震災と原発事故はそうした事態を白日のもとに晒したが、実は何年も前から始まっていたことだった。幸か不幸か、僕たちはついに気づいてしまった。そうである以上、これまで通りでいられるはずがない*1

心配しなくても大丈夫。どっちみち、これらすべてにはなんの意味もないんだ。それに。現実は続くがどんなにひどい作品も必ず終わるんだから。

(メイキング☆7より)


最終章の直前、「震災文学論」と題した章が物語を分断する形で挿入されている。それまでと文体も一変し、違和感はたいへんなものである。そこで高橋は『神様 2011』『風の谷のナウシカ』『苦海浄土』といった作品をひきながら、震災後の社会における文学作品が担うべき使命について論じている。ある意味では、本書の“説明書”でもあるわけだ。ストーリーの流れを断ち切る構成と著書自らによる解説。文学的にはこれらを「無粋」な行為と見ることも可能だろう。しかし著者はあえてその方法を選んだ。そこにこそ、本書に込めた高橋の思いと決意が見て取れるように思う。そして「震災文学論」を読む前と後では、それまで読み進めてきた物語に向ける視線も必然的に変わってしまうだろう。


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高橋も出演したニコ生思想地図「震災以後の文学」回はとても面白かった。ここでは「日本社会はなぜこうなってしまったのか?」という問いにおける、ひとつの視点が提示される。いま日本において「政治家」と呼ばれている人たちは、真の意味で政治家ではなく、単なる実務家になってしまっている*2。その事実と、「なぜいま文学が必要なのか?」と問うことの間には浅からぬ因縁がある、というものだ。


科学の有用性は誰の目にも明らかだが、対して文学の場合はそうでない*3。ただそうは言っても、僕たちのコミュニケーションの根幹を支えるのは結局のところ言葉だ。正しい言葉が「安全」のメッセージにはなりえたとして、さらに「安心」を生むかどうかは別次元の問題になってくる。いうまでもなく、後者の問題には文学的な要素が大きく関わっているだろう。放射能健康被害を巡り、そうした体験はうんざりするほど味わったわけだけれど、僕たちの社会は未だ問題の核心に至ってはいないように見える。


さらさら読めておすすめ。字もでかいのよ。

*1:「いるべきでない/変わるべきである」というニュアンスよりも、環境が変わってしまった以上、「変わらないでいる」という選択肢そのものが失われたと捉えるのが正しいと思う。

*2:ここで言及しているのは、政治家個人の資質の問題以上に、そうした人材しか育たず、また選出されないという社会の環境・制度上の課題である。

*3:もっと大きく理系学問と文系学問に対する人々の関心の格差、と見ることも可能かもしれない。