一緒に考えよう原発政策(高円寺→札幌のデモを経て)

震災からちょうど3ヶ月だった6月11日、全国一斉に行われた反原発デモ。
6.11 脱原発100万人アクション | -Action June 11: No Nuclear Power


先月末に高円寺から札幌市に移住し、今回はさっぽろピクニックデモに参加したのだけど、率直に言って、札幌でのデモはその規模の小ささに拍子抜けしました。数万人単位の東京に対し、北海道での参加者は500人程。予想していた以上の温度差があるのだなあと。


高円寺に住んでいると、4月10日の『原発やめろデモ!!!!!!!!!』はそれほど驚きがないというか、日常的にあんなイベントがあるわけではないけど、あのお祭り騒ぎも全然不思議じゃない感覚があるのですよね。15000人の参加者というのも、予想以上に集まったなあとは思いながらも、その規模の大きさがイマイチ理解できていませんでした。今回、全国各地で行われたデモの動員数を見て、東京のデモ参加者数はやはり抜けているのだなと。


で、今回のデモ参加を通じてずっと考えていた事がようやくまとまりつつあります。

僕は高円寺デモには参加しませんでした(Ust中継は見ていたけど)。デモに対する不信感・嫌悪感を(漠然と)持っていたからです。と同時に、デモに対する高円寺住人の異様な反発にも強い苛立ちを感じていました。その辺りの心境や、今の思いを書いてみようと思います。

高円寺デモと住民の反応

デモ行為に対する感情は、幾つもの要素が複雑に関わっているように思います。
・デモ活動そのものに対する嫌悪感
・デモの手法に対する不信感
・デモ主催者に対する感情


デモ活動は主張を訴える手法として正攻法とも言えるものですが、『やり方が古い』という批判もあります。一方で、高円寺で行われたサウンド・デモに対しては、『お祭り騒ぎがしたいだけだろ』という声も多くありました。


高円寺をはじめ、その後の渋谷・新宿でのデモを主催したのは素人の乱という団体ですが、この人達はぶっちゃけ地元(の一部)ではあまり良く思われていません。『バカ騒ぎしたいだけの連中。信念など何もない』との批判も出ていました。(本人達もそう思われている事を自覚しているでしょう)


ただ僕は住民達の声に大きな違和感を持っていました。手法や主催者への不信感等、デモ反対の理由は幾つも並ぶのだけど、どうにも本当の「根拠」に聞こえない…。つまりは単に(そして強烈な)デモ・アレルギーではないかと思えたのです。


Togetter - 「4.10高円寺・原発やめろデモが地元商店街で大ひんしゅく」


たとえば当時多くの人に支持されたこの批判。この問題指摘自体は全うだと思います。ただ、この主張に「乗っかって」デモ反対を唱えた「アレルギー患者」は相当数居たと思います。デモ反対派にとって素晴らしい「口実」になったのではないかと。


僕を含む日本人にとって、「デモ活動」とは全共闘時代・学生運動の象徴的な「記号」であり、それに対する反省・不信感が今だ根強く残っています。というよりも、『デモ反対』の声はそこに全て集約されるのではないかとすら感じました。

デモ・アレルギーの日本人

これはもちろん高円寺だけでなく、日本社会全体に蔓延する病理です。高円寺以降のデモでも、開催地周辺住民から同じような批判は聞こえたし、福島から距離のある地方都市ではその傾向が顕著なようでした。YouTubeでデモの映像を幾つか見ると分かりますが、海外からは概ね好意的なコメント、自国のコメントは批判的というのも興味深いです。(もちろん投稿数の差はあるので実際の傾向分析は単純でないですが)


そもそもデモ活動は、開催地の周辺住人にとって多かれ少なかれ「迷惑」が掛かるし、警察官が出動すれば税金も掛かる。その事を当然に含んだ行為であり権利です。だからこそ主催者は批判を受ける責任や覚悟が生じるし、生活の中に突如として現われた「異物」に市民の目は奪われる。


今いちばん重要なのは、目の前にある危機を叫ぶこと。震災から3ヶ月経ってようやく、僕はそれを明確に自覚するようになりました。福島だけでなく、東京に住む自分達の生活をも脅かす大事故が起こったこの状況下、どんな形であれ、明確な意思表示のひとつやふたつ起こらなければ、それは逆に異常事態でしょう。日本人はつい「形」にこだわってしまうのだけど、それは優先順位を完全に間違っています。


日本の社会は、「異物」が発生した時の反応が画一化されすぎてしまっている。そんな危機感を持つのは僕だけではないはずです。

『代替案も示さずに「やめろ!」と言うだけ?』

原発脱原発運動は歴史も長く、活動の範囲も多岐に渡ります。当然、代替エネルギーの議論も行われています。デモは意見表明のひとつの場に過ぎません。そこだけを見て批判するのは、無知以外のなにものでもない。…その事に、恥ずかしながら僕も最近気づき始めました。

『大声を上げるだけじゃ何も変わらない』

デモという手法に対する批判は勿論あるでしょう。僕もこれがベストの方法なのか、未だよく分かりません。しかし同時に、現時点で自分が取り組める最良の方法かも、という心境も事実です。それはこれから議論していけば良いのでしょう。次のアクションが起こせるまで、「ひとまず」デモを支持していこうと思っています。


また過激な言動に批判が集まりがちなデモ活動ですが、「合法的に暴力的エネルギーを発散する安全な場」だという点も重要と思います。現代社会において暴力は、とにかく否定され隠蔽されていますが、本質的に人間の活動と切り離せない物です。もちろん暴力行為は違法ですが、溜まったストレスの捌け口を消費活動に転換して来た先進国においても、暴力的なエネルギーを完全に否定しつつある現状は息苦しく、決して健全とは思いません。


東電の社長が被災者の前で土下座したあの場面。東電社長を罵倒しても現状は何も変わらない、福島の人たちもそんな事は分かっています。それでも東電社長以上に怒りをぶつける格好の相手はないでしょう。やり場のない怒りや哀しみは、きちんと怒りや哀しみとしてどこかに吐き出す、これって重要な事だと思います。

いまの社会に生きていると、感情を理性でコントロールする事が、負の感情を避けて鈍感になる事へすり替わって行く感覚があります。平和の為に適度な暴力は社会として容認すべきかなと思います。


ちょうどタイムスクープハンターで紹介された後妻打ち(うわなりうち)*1なんか面白い制度だなと。現代でもやればいいのにw

動員数の重要性

サウンド・デモ」というスタイルを選んだ東京でのデモ。僕はこの戦略は一定の成果を上げたと感じています。とにかく参加者の若者比率が高い。かと言って年配の方が少ないかと言えば、映像を見る限り幅広い年齢層の人々が参加しているように見えます。サウンドカーばかりが注目されるけれど、そこから離れたグループにはお年寄りも子供連れも居るのですよね。


札幌のデモに行ってみて、正直心許ない気持ちになったし、東京のデモに参加したかったなとも思いました。やはり同じ問題意識を持った人がたくさん居るのだと実感できる状況は、今後自分の意識継続に繋がるだろうなと思います。


僕が東京のデモに参加しなかった理由のひとつに、大勢の中の一個になってしまう事、「反原発」の意見としてひと括りにされてしまう事への抵抗感があったと今は思います。大衆を信用していないので、小さな声でもツイッターで意見をつぶやいてる方が「主張している気分」になれる。ただ、薄々そのみっともなさには気づいていて、いよいよ観念してデモに参加してみたわけですよ。そして「札幌より東京で参加したかった」というこの心境。せっかく皆で声を上げるなら、より声の大きい中に居たかった。これがいま率直な気持ちです。つくづく僕はエゴで動いているなと。ハハ


東京に居る人は、身近で起こっているデモの大きさにあまり実感がないかもしれません。でも地方から見ると、それは「希望」なのですよ。特に若い力が起こした希望。
もしいつかデモに行ってみようかなという人は、東京のデモ参加は悪くないと思いますよ。

そもそも何のためのデモなのか

いま僕は「反原発脱原発」について結構日常的に考えているわけですが、これってあくまで「より良い未来」の為の方針なんですよね。「原発推進」の人々とはつい対立してしまいがちだけど、本当にすべきは未来のあり方の議論であって、その上で原発の要否を検討していくことなのでしょう。


つまりは一緒に答えを探していきましょうという事です。


この記事では、高円寺のデモ反対の人々に対する批判染みた事をしてしまいました。それは僕の怒りを伝えたかったからです。ごめんね。

でも本当にしたいのは、一緒に未来を考える事なんですよ。デモはその為のひとつの手段でしかない。あの時デモ反対を表明した人達も、原発に不安が無いなんて事は決して無いと思う。その事を気にして頑なに「中立」を守っている人がもしも居るのなら、どうか一度考えてみてほしい。


デモや反原発に全面賛成でなくても良いし、むしろそういう迷いを抱えながらベターを選んで行くことが大事なのだと思います。そして一緒に未来の話をしましょう。



高円寺デモのダイジェスト版。規模の大きさや参加層の広さがよく分かります。



サウンドカー上で声を上げる兄ちゃん、リサイクルショップで何度かお世話になったけど、普通に良い人達でした。。w



RUMI 『A.K.Y』。パンチラインだらけで胸を打たれる。



一方、6/11の札幌デモ。粛々とした正統派のデモ行進。4月のデモは30人だった事を思えば大躍進ですが…。