自分の死に方は選べるか

「葬式」というものが、どうにも気持ち悪くて仕方がない。
葬式は生き残ったものの為の儀式だ。こんな当たり前のことは誰でも分かっている。でも表立ってそんなことは誰も言わない。言ってはいけない。自分のじいちゃんの葬式のとき、親戚のおばさんが立派な式場の様子を見て、「おじいちゃん、きっと喜んでいるね」と言った。私は思わずぞっとして、素直に「そうですね」と即答できなかった。私の態度に、おばさんは露骨に嫌な顔をしていた。

誰かが死んだら哀しみ、形式だけでも(こう言うとまたマズいのだけど・・)皆が納得する儀式によって死者を送り出してやる。欺瞞だらけ。突っ込みどころ満載なのだが、そこは当たり前に「空気を読み」、皆と同じように哀しい顔をしていれば良い。それが「大人」だ。何より、こんなこと気にしない方が楽なのだ。

とはいえ私も、こうしたことを考えている・悩んでいることで、「何の疑問も持たずにいる人々」より自分は優れているなどと考えるのは馬鹿げていることも知っている。結局、社会・世間とちょうど良い距離を自分なりに見つけていくしかないのだろう・・・。

自分の死が訪れたとき、私は葬式なんてやってくれなくても良いと思っているけれど、親族がやりたいと思うのなら勝手にやってくれれば良い。自分が死んでしまった後は、自分ではどうにもできないし、もっと言えばどうでも良いのだから。日本式の中途半端な葬式には何の意味も見出せないが、かといって頑なに自分の葬式を拒んで、残った親族を「変人」に仕立て上げたいわけではない。
だから私の葬式は、ぜひ私のために壮大に執り行って欲しい。
(仮に私にとってはどうでも良いとしても。)