近代哲学の人間像('12) 第13回 実証主義的科学と哲学(講義メモ)

実証主義的科学と哲学

かつて哲学が占めていた知的世界の多くの分野が、今日では実証主義的科学によって奪われているかのように見える。このような時代に、哲学はどのように自己主張ができるのか。それを、実証主義という言葉の確立者であるコント以来の学問状況を踏まえて検討する。


【キーワード】実証主義、進化論、思惟経済主義、実存


ヘーゲル『エンチクロペディ』のような学術関係をすべて網羅するといった類の哲学体系は、彼を最後として消えていく。代わって学問的研究の主役を担うのは専門化された実証主義的科学である。

実証主義的科学の誕生

実証主義(ポジティビズム)は、フランスの社会学オーギュスト・コントが提唱したのが始まり。コントは世界に関する人類の知識は、以下の段階を経て進化するとされる。

  • 神学的段階
    • 拝物教:外部にある自然物に生命や神秘的力を認め、崇拝する宗教の段階。
    • 多神教:豊かな想像力によって自然を多様に描いた時代。
    • 一神教ユダヤキリスト教に代表される。すべての自然現象はひとつの決まりに従うという考え方。自然科学の基盤となる段階。
  • 形而上学的段階
    • 哲学的な絶対的知識を求める段階。超自然力による説明ではなく、抽象的な観念による説明を求める点で、神学と異なる。
  • 実証主義的段階
    • 事実の観察に基づかない知識は排除しなければならないという考え方。観察された現象相互の関係としての自然法則を追求する。普遍性と恒常性を備えてはいるが、世界の絶対的真理ではなく、経験可能な範囲での真理であり、常に相対的な知識の探求という段階に留まらねばならない。


カントは人間の認識能力の限界を認めていたが、他方で超越論的哲学が学問の頂点に来るという考えを手放そうとしなかった。コントによれば、このような哲学は完全に実証主義的科学にとって変わられてしまうと主張した。

ダーウィンの進化論

人間もまた動物の一種であるとする捉え方は、それまでの人間観を根底から覆してしまうものであった。『種の起源』の発表当時には宗教界から大きな抵抗を受けたが、次第にポピュラーな理論となる。生物学の分野だけでなく、社会を有機体として捉える理論(「適者生存の原則」など)へと結びついていった点に注目。


マルクスは『種の起源』を、自らの『資本論』に先行する著作と捉えていた。われわれが持っている道徳も観念も、物質的条件から自立した精神が独自に考え出したものではなく、物質的な下部構造の反映にすぎない、という彼の唯物史観への影響は多大である。


参照:近代哲学の人間像 第12回 マルクス主義(講義メモ)


フロイト精神分析理論

フロイトは人間の心の理解のためには「無意識」に注目する必要があり、その無意識の領域を支配するものは「性衝動」だと考えた。人間の心のあり方やその機能を研究する領域が、実証主義的科学の支配下に置かれた一例。

マッハの新実証主義

科学者・物理学者として業績多数(速度を表す「マッハ数」の名称は彼に由来する)。対象的事物の存在を自明の前提とする実証主義の考え方は、素朴な実在論であるとして批判(ヒュームに近い観点といえる)。認識の出発点を感覚と考える。伝統的な認識論を支える「主観‐客観」も、要素的な感覚によって合成された派生物とみなし、要素間の関数的関係として捉えるべきであると主張。因果関係についても同様に、感覚的諸要素(現象)の関数関係として表現できるとした。


同様の観点から、ニュートンの「絶対時間」「絶対空間」という捉え方も批判している。空間も時間もわれわれの感覚の一種であり、われわれが生き物として生きていくのに都合良く構成されたシステムであるにすぎないとする。アインシュタインによる「相対性理論」の下地を作った人物であるといえる。

実証主義に挑む哲学

キェルケゴール

実存主義の提唱者。実存=個人のかけがえのない存在。主体的で個性的な普遍的思惟に回収されないような存在。ヘーゲル哲学の「客観的真理」の立場には激しく反発するが、弁証法的論法には大きな影響を受けているといえよう。信仰を足場として、近代の諸原理に対抗する哲学を展開。


初期の作品『あれか、これか』の中で、実存を以下のように分類した。

  • 美的実存
    • ひたすら性愛の享楽を求める。
  • 倫理的実存
    • 社会規範の枠の中に据えるもの。性愛の享楽を倫理的実存によって克服。
  • 宗教的実存
    • 最終的に到達する。自分とは絶対的に隔絶した存在としての神に向かい合う単独者のあり方が追求される。
『死にいたる病』
人間の精神を「自己が自己に関係する関係」と定義し、絶望と関係付ける。人間とは、無限と有限、時間と永遠、自由と必然といった対立物の総合であることから絶望*1が立ち現れるとされる。


キェルケゴールによれば、有限な境遇に満足してしまうことは、自らが絶望であることを知らぬ絶望に陥っているのであり、他方、無限なものへの憧憬のうちで自分が有限者であることを忘れてしまうことも、自己本来の姿を忘れてしまっている絶望状態(「弱気な絶望」)だとされる。

最終的には、絶望しながら有限な自己の上に居直り、あくまでも絶望する自己自身を引き受けようとする「傲慢な絶望」をも克服し、真の信仰の道へと到達することが課題とされた。実存の孕む不条理と信仰とを直結させることが、彼の重要な思想主題であり、近代的合理主義への根深い敵意が見てとれる。

ニーチェ

生哲学の立場からの猛烈なキリスト教批判。キリスト教は肉体を恥ずかしいものと思わせるために霊魂・精神をでっちあげ、生命の前提となる生殖行為を不潔なことであるかのように教えた。個体の生成にとって不可欠な利己心を悪と教え、無私・隣人愛・同情という徳目を掲げるが、それは生に敵対するものであり、ルサンチマンの産物である。ニーチェはこのように主張し、さらには宗教一般、道徳一般への批判へと広がっていくことになる。科学・民主主義・キリスト教が合一した近代西洋の文化が行き詰まりの状態(デカダン)に陥っているという観点に立ち、同時代の主張一般が攻撃の対象となった。


参照:哲学史における生命概念 第12回 ニーチェの思想(講義メモ)


生の観点に立つならば、われわれの行為・思惟・感覚・好み・評価はそれぞれが比較を絶した独特なものであり、そのことを全面的に肯定し受け入れるというパースペクティヴィズムをニーチェは主張する。まさにこのことが、客観的真理の認識を自明の課題とする経験科学と対立するものであった。他方で彼の哲学の中にも、生哲学の観点からの因果性の確立や、宗教・道徳の背後にルサンチマンを見出す実証主義的精神を見てとることも可能である。

*1:ただし、何かの欲望を遂げられなかったという思いとは異なる。われわれは無限への思考をもつものでありつつ、常に有限性に囚われている自分を見出さざるを得ない。そのような人間の本性に深く根ざすものに、絶望の根拠はあるとキェルケゴールは考えた。