現代哲学への挑戦('11) 第13回 フランクフルト学派とドゥルーズ=ガタリ(講義メモ)

フランクフルト学派と『アンチ・オイディプス

アメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人哲学者たちは、精神分析マルクス主義を使って、ファシズムの成立と先進資本主義を批判的に解明し、近代文明の行方を論じた。フランスでは、五月革命後、ドゥルーズガタリが、ラディカルに精神分析マルクス主義を結合して資本主義社会を論じた。


【キーワード】ホルクハイマー・アドルノ・批判・フロム・マルクーゼ・ドゥルーズガタリ・欲望する機械・スキゾ分析

前回のまとめ

「健康が大事」ということを通じて人々の意識・思考・行動が支配される社会体制「生命政治」をみてきた。そこでは健康の善悪判断ばかりが注目され、ありとあらゆる習慣・振る舞いが自主規制させられ、あるいは以前には自由だったことが禁止される状況が生まれている。

今日、個人の自由が損なわれつつある状況において多くの人が抵抗しないのはなぜか。巧妙な統治技法のためか?あるいは、ホッブズ以来の――人間は本来自由を求める存在であるという――近代的人間観が誤っていたのか?今回は生命政治の延長で、国家と自由の問題に取り組んだ20世紀の思想を検討する。

現代における暴力

ホモ・サケル

ジョルジョ・アガンベンが執筆。フーコーの生命政治をもう一度、統治と暴力の関係から考察を試みた。生命政治における暴力とは、健康を望む人々の生活を超えて、生という自分の存在の儚さがむき出しにされることであり、このことへの密かな自覚こそが人々に生命政治の支配を受け入れさせると主張。

ビオスとゾーエ
「生命」と「むきだしの生」を対比。生命政治の「生命」と哲学的な「生」に対応する。

『暴力批判論』

1921年フランクフルト学派 W.ベンヤミン著。上記のような暴力の捉え方を最初にした著作。彼は暴力を次のように区別する。

  • 法によって行使される暴力
  • 法を成立させる暴力
    • 法を維持する暴力
    • 法を制定する暴力


ルールを決定する力こそが暴力であり、その力をふるうものが勝者である。アガンベンの主張も、生命政治の背後にこうした暴力の存在を認めていたことによる。さらにベンヤミンは、これらの暴力に対比させて、法の制定すらしないもっと純粋な暴力(「神的暴力」)があるとした。国家の存在そのものを脅かすもの(アナーキズム)であり、平和な時の「生命の尊さ」というドグマは革命を抑圧しようとするドグマであると主張する*1

ベンサム功利主義

フーコー構造主義歴史観に従って、権力の源泉や革命の可能性について詳細に論じてはいないが、近代の統治の原理を示す試みとして、ベンサムの構想した刑務所「パノプティコン」を取り上げている。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/11/Panopticon.jpg/220px-Panopticon.jpg少数の刑務官が一挙に全収容者を監視できる構造。中心に監視塔、それを取り巻くようにして半円形のビルがあり、そこに蜂の巣上に監房が配置される。実際に見ていなくても、「いつ見られるか分からない」という状況によって監視機能が成立する。フーコーは18世紀末からはじまる統治原理――暴力ではなく、視線が統治を生み出す――の象徴であると考えていた。


ベンサム功利主義は、各人の人格・性格に由来する行為を全て快苦の動機とその演算(オペレーション)に還元し、社会の最大幸福の極大化を目指す。その手段が法律、訓育、視線である*2。法律は社会の健康としての「幸福の極大化」を実現させるための薬であり、罰することよりも違反されないことが重要とする。ベンサムは空間的配置を通じた管理によって、「法に触れさえしなければ何をしてもいい」という自由と、欲望の解放・制御を教えようとした。


生命政治は、主体的な思考が対決すべき管理社会論的な問題ではない。支配と隷属とがあるのではなく、すべての人が巻き込まれる主体(Subject)の二重の意味、隷属という意味のある主体を見出すこと、政治への抵抗の決して英雄的でない指針を探すこと。それがフーコーの主張である。ベンヤミンは近代の前衛であって、フーコーポストモダンであったというべきかもしれない。

フランクフルト学派

1930年代、ユダヤマルクス主義者たちによってフランクフルトに創設。ナチスによる迫害により、諸外国への亡命を余儀なくされたが、その間も近代西洋文明を根底的に否定する批判的理論を展開した。フェティシズム(物神崇拝。目の前のものに執着し全体が見えなくなること)、イデオロギー(社会に流通する思想で頑なになる)といった歴史的実践における傾向を批判する思想であった。人々が歴史の中で自己を捉え、その歴史に対して働きかけていくという実践によって、歴史を転覆させることを目指す。


ベンヤミンのほか代表的思想家として、アドルノ、ホルクハイマー、フロム、マルクーゼ、ハーバーマスなど。

啓蒙の弁証法

アドルノ、ホルクハイマーの共著。ベンヤミンの意向を継承する。彼らのいう「啓蒙」とは、ホメロスに始まった人類文明における人間の自己の自覚の歴史を明らかにすることである。


人類は5000年前に農耕のために定住し始めたが、それ以前は遊牧民ノマド)として放浪していた。西洋近代によって忘れ去られた、もうひとつの本質的生活様式である。ノマドの人々は自然における脅威と不安(マナ)を抱いていた。そこで言語を用いて最初の啓蒙を行い、神話を作り始める。マナの諸要素に神々の名を与え、分からないものを反復するものと規定して、分かっているものであるかのように捉えた。次第に、自然には恐れるものはないという発想となっていく。


西洋近代における啓蒙*3は、近代的人間・理性的主体となって科学的知識を身につけることであり、人間と自然の「主体‐客体」の認識が生じることとなった。それは神話破壊の言説が新たな神話となり、それと自覚されないままに生活を規定するという弁証法的な営みに他ならない。すべての啓蒙にあるのは、「マナに対する支配の延長」という原理であり、人類の生にとって支配が自己目的化してしまっている。そのようにアドルノらは主張するのである。これは革命すらも「夢想」であると捉える諦めの境地のようにも見える。

『自由からの逃走』

E.S.フロムは、フランクフルト学派フロイト思想を持ち込んだ人物。エディプス・コンプレックスが人類普遍のものであるとするフロイト思想を批判。同様の主張をしたW.ライヒは、社会の革命と個人の生革命とを別次元の問題と捉えたが、フロムはそうしたライヒの主張をも批判する。


フロムによれば、個人の精神と社会のあり方は直接的に関係していると捉えた。個人も成長し、母親との一次的絆から離れて自由になるが、動物と異なり人はそれによって孤立感を味わう。社会がその個性を許容して自信を深めさせる状況にないときには無力感によって自由から逃走、二次的な絆(ファシズム)を求めるとし、そうしたサド・マドヒズム的傾向(精神分析的)、権威主義的性格(社会的)には問題があると主張した。近代的人間観がファイズムへの欲望を呼び起こしたとするライヒとは異なる立場を取ったといえる。

『一次元的人間』

マルクーゼ著。個人的自覚によって行動を起こせるような状況をすでに超えてしまっていると分析。現在の社会状況においては、何が自分の欲求で、何が押し付けられた欲求なのか分からない。ともかく生き延びていくよう、欲求とその充足を押し付けられた生存に自分を同一化してしまっているとする。彼によれば、抑圧が強化されているところでこそ、個々の矮小な自由が認められ、そのため人々はむしろ抑圧を欲望するようになるという。フランクフルト学派が目指していた弁証法が不可能になっているという主張でもあった。


そうした状況を変えられるのは、社会的弱者の声のみであるとマルクーゼは考えていた。

ドゥルーズ=ガタリの資本主義社会論

五月革命

1968年5月、フランスで起こった民衆の反体制運動。学生運動(スチューデント・パワー)から始まり*4、労働者を巻き込んでゼネストまで発展。さらに世界各国を巻き込んで大規模な学生運動が発生した。革命を主導するはずのフランス共産党ゼネストを妨害。共産主義革命は実現せず、共産主義に期待を寄せていた多くの知識人たちを失望させた。

『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症』

1972年、ドゥルーズ=ガタリによる共著。五月革命の決算書としてベストセラーとなる。ラカン派の異端ガタリが、五月革命の破綻を深刻に受け止めたドゥルーズと出会い実現した。


精神分析マルクス主義を結び付けようとした思想。同様の観点に立っていたライヒ、フロム、マルクーゼらの主張とはまったく異なるものである。無意識を、個人的意識の背後にある心のことではなく、われわれが生きている現実のことであると捉える。意識はこの現実を垣間見ることしかできず、主体的に働きかけることもできない*5。彼らによれば、この現実は無数の欲望する機械が結合・切断する機械仕掛けであり、人間の意識もまた時に調子狂いをする機械であるとして自然を捉え、統合失調症(分裂症)の症状から推察が可能とされる。

スキゾ
常に制度や秩序から逃れ出てゆく、病的・分裂的傾向。意識における人間主体としての経験に開いた裂け目のこと。革命を引き起こす因子である*6。パラノと対置される。


スキゾ経験において問題になることは、社会で生じている問題に直結しているとされる。ドゥルーズ=ガタリは、フロイト理論はこうした概念を発見していたにも関わらず、オイディプス神話を創作し、社会の問題を家族の問題に摩り替えたとして批判。狂気じみた言説と思いつきの行動こそがわれわれの具体的な社会生活である。スキゾ経験を抑え込み、人々に自由な主体であることを強要するもの――学校、病院、刑務所といった社会に適合させるもの――を明らかにし、そこから逃走の道を見出そうとするのが「スキゾ分析」である。


革命とファシズムとは同じ「自由からの逃走」から生じた別の結果にすぎない。

国家とはなにか

ドゥルーズ=ガタリは、近代国家のような完全に統治された社会は存在しえないと主張する。国家は「戦争機械」*7を抱え込む。国家は他国との戦争から国民を守るためにあるのではなく、戦争機械を養い、戦争被害の恐怖や愛国心を吹き込みながら、国民に従属を強いる。国家の成立を彼らはそのように捉えた。その上で歴史を以下の段階に分類する。

  • 野生(未開)
    • 「土地」(地形と自然環境を伴う地面の広がりであり、人間が住まう場所)とに特徴づけられる。自然と一体となって生きる人々の社会。
  • 野蛮
    • 野生の社会に外部からパラノイアがやって来て、野蛮の時代の専制君主となる。土地の区画化、投機の開始(脱土地化)。言語の成立。国家の誕生。国家は絶えず忘却され、しばしば野生時代が再生しながらも、「原国家」として継承されていく。
  • 文明
    • 資本主義社会をさす。野生と野蛮の交代の終焉(高速で交代が生じる社会の誕生)。共産主義社会は「永遠の野生時代」という夢であった。しかしドゥルーズ=ガタリによれば、それは純粋な野生ではなく、常に人々が求めてきた「器官なき身体」が投影されたものにすぎないとされる。
器官なき身体
アントナン・アルトーが提唱。社会機構の秩序を形成するように、人々の身体を活動させてきたもの。死の衝動ともいわれる。後の講義で詳述。

*1:ベンヤミン共産主義革命の可能性に期待していたとされる。

*2:それ自体も苦を生じさせるものであるため、法も極力少ないことが望ましいとベンサムは考えていた。

*3:これが一般的に言われる「啓蒙」である。

*4:女子寮に忍び込んだ男子学生の処分という「性に関する事件」をめぐる大学側と学生側が対立が発端という事実は、ライヒが予見したとおりであった。

*5:あえて比較すれば、啓蒙の弁証法におけるマナの世界として捉えようとした、ということもできる。

*6:ただしあくまで概念的なもの。それゆえ人間が主体となって連帯が必要となるマルクス主義は不可能であるという結論が導かれる。

*7:いわゆる「暴力装置」だが、「主体と抵抗」の文脈と明確に区別するための名称。