功利主義と分析哲学('10)−経験論哲学入門− 第13回 自然主義の拡張(講義メモ)

自然主義の興隆

ウイラード・オーマン・クワインの「自然化された認識論」について解説する。そして、倫理学への自然主義の拡張の問題についても触れる。


【キーワード】ホーリズム、行為の因果説、脳神経倫理

ホーリズム

※序盤15分は未聴。のちに追記する。

W.V.クワイン
哲学は概念分析ではないと主張。論理実証主義がはらむような経験主義を批判し、個別の命題だけでは経験によった確証は得られない(確証されるのは命題体系全体である)とする確証の全体論ホーリズム)を提唱した。

ホーリズム(Holism)とは、ある系(システム)全体は、それの部分の算術的総和以上のものである、とする考えのことである。あるいは、全体を部分や要素に還元することはできない、とする立場である。

すなわち、部分部分をバラバラに理解していても系全体の振る舞いを理解できるものではない、という事実を指摘する考え方である。部分や要素の理解だけでシステム全体が理解できたと信じてしまう還元主義と対立する。全体論と訳すこともある。


私たちの知識や信念の体系は全体として人工の構築物であり、経験的データに対応する確実な基礎的方針といったものは存在しない。


クワインによれば、それまでの哲学の認識論(認識のありようを論じる領域)は私たちの知識に確実な基礎を与えることを課題としてきたが、哲学史的事実、あるいはホーリズムの立場から見ても、宿命的に失敗せざるを得ないとする。「ヒューム的苦境はヒューマン的苦境である」。認識の確実な基礎を与えるのではなく、認識論的に疑わしい概念を問題のない概念によって説明するという、概念的な課題としては有意味であるとし、自然科学的な探求、(行動主義的)心理学としての認識論を提唱。

自然化された認識論

クワインのプログラムは「知識とは自然現象であり、よって自然科学的に探求されるべきである」という過激な主張であるともいえる。J.サールの「生(なま)の事実、制度的事実」という区別に関していえば、前者についての知識(知覚など)に対して自然主義的な認識論が有効(認知科学など)と考えられるが、後者についての知識を自然現象として捉えきるのは困難ではないか。制度的事実は政治的・法的な権威によって成立しており、そうした権威を自然現象として認識できない以上、クワインの主張はいささか無理筋であるように思われる。自然科学にすべてを還元してしまうのではなく、経験を諸科学に連携しながら知識を解き明かしていく態度が妥当であろう。


行為論についても、「自然化された認識論」に類似した主張が展開されている。

行為の因果説
D.デイヴィッドソンらが主張。行為は、「理由」(意図)または「原因」(欲求・信念)による説明が可能であるとする。


ただし行為の因果説に従うとき、以下のような「逸脱因果」が生じるという問題がある。こうした困難に対処するため、因果概念の適用をより厳密化することで、行為の因果説は洗練されていくこととなる。

Aさんを殺そうと考えたBさんが車を猛スピードで走らせていると、急に人が飛び出してきて轢き殺してしまった。たが実は、その轢き殺された人はAさんであった。このとき、Bさんの「Aさんを殺そう」という意図が原因となってAさんは殺されたのであり、この事故は純然たる故意犯である。

心の哲学

心の哲学
アリストテレスデカルトにも見出される伝統的領域。現代においては、物理主義と反物理主義による論争が繰り広げられている。
物理主義
心の働きを脳神経などの生理的・物理的プロセスに依拠して理解する立場。心の働きは物理的プロセスに還元可能、還元はできないが付随するもの、物理的プロセスしか存在せず心の働きは消去できる、など複数の考え方が存在する。人間の心や行為が自然科学的探求の枠内に収まると捉える。


こうした物理主義的立場に対しては、クオリア(感覚や意識の質)は物理的には説明できないという反論も根強く、またデイヴィッド・チャーマーズの「ゾンビ論法」によっても批判されている。

倫理学の自然化

自由と責任の問題

自由と必然(決定論)は両立しないと考える立場を「非両立主義」とよぶ。非両立主義には次の二つの立場が存在する。

リバタリアニズム
自由主義。自由は現に成立していると考える立場。
固い非両立主義
世界は必然的に決定されているので、自由は実際には成立していないと考える立場。


非両立主義(なかでも自由主義)は、「他行為可能性」(「他の仕方でも行為できたはず」という伝統的な考え方)と結びつきやすく、行為に対しては責任が伴うとものする考え方が根強い。しかし他行為可能性に対しては、自由や責任にとって必要条件ではない*1とする反論がある。また自由主義に対しては、意志と行為の結びつきが非決定論的であるならば、その行為は極めて偶然的なものにすぎず到底責任を問えるものではないという伝統的批判(ヒュームなど)が存在する。


他方、ヒュームによれば、自由と必然は両立し、自由は意志と行為との間の決定論的結びつきを要請するとされる。しかしながら両立主義にも、自由か自由でないかの二者択一に陥りやすく、自由や責任の程度問題を論じる際に困難が生じるという課題がある。

道徳的評価の問題
  • 脳神経倫理

生理学者 B.リベットは、自由意志について脳科学的な解明を試み、興味深い実験結果を得ている。

人間の意志に基づく行為において、当該行為が生じる約500ミリ秒前にその行為に対応する「準備電位」とよばれる脳の活動が現れ、その後約350ミリ秒後に意志の意識が現れ、そののちに当該行為が発生する。


これに従うならば、行為の最初の起動は意識の前に生じた準備電位にあると予想され、自由意志が行為を引き起こしているのではないことになる。他方でリベットは、行為を行うという意識のあとでその行為を行うことを拒否できるという実験結果も得ており、そこに伝統的な自由意志の在り処がありそうだとも示唆している。

困っている人を救う場面において。目の前にいる人の場合の方が、遠隔地の人の場合よりも、私たちの脳活動は活発になるという事実が示されている。そしてそれは、私たちの祖先が面と向かった個人的関係性の中での助け合いを必要とする環境の中で進化してきたからである、といった説明がなされる。ただしこれは事実の記述であり、規範について述べるものでない点は注意が必要(自然主義的誤謬の危険性)。

  • 実験哲学

統計的アンケートを取るといった方法によって、哲学のさまざまな問題に根拠を与えようとする思想運動。ジョシュア・ノーブは、「意図的かどうか」の判別には道徳的考慮が入り込んでいるという論点を提起した。

ある会社で事業を計画中、それが環境破壊を招く可能性があることを責任者に報告した。すると彼は、「そんなことは関係ない。計画を実行することだけに会社は関心があるのだ」と答えた。
そして実際に環境破壊が生じたならば、多くの人々はその会社の責任者は意図的にそうしたのだと捉える。


****


ある会社で事業を計画中、それが環境の改善をもたらす可能性があることを責任者に報告した。すると彼は、「そんなことは関係ない。計画を実行することだけに会社は関心があるのだ」と答えた。
そして実際に環境改善が生じたとしても、多くの人々はその会社の責任者は意図的にそうしたのではないと捉える。

*1:他行為可能性が存在しないとしても、責任を問われる場面は存在するため。