功利主義と分析哲学('10)−経験論哲学入門− 第14回 認識の不確実性(講義メモ)

認識の不確実性

確率と曖昧性めぐる、現代分析哲学の議論を解説する。


【キーワード】確率的因果、ソライティーズ・パラドックスラムジー・テスト

哲学における不確実性

デカルトのコギト命題以来、認識は確実性を基準として考えられてきた。しかし哲学以外の世界では、17〜18世紀以降、確率で表せる不確実な状態を自然な初期条件と受け入れた上で議論を開始するというスタイルがすでに生まれていた。20世紀に入り、量子力学不確定性原理などのインパクトを受けてようやく哲学も不確実性を主題とするという方向性を示し始めた。


選言三段論法(論理)として妥当であっても、確実性は保障されない。不確実性にはふたつの論点がある。

  • 情報の不確実性
  • 曖昧性

不確実性と確率

パスカルによって考案された概念。確率概念の誕生は、「確率革命」とよばれるほど歴史上大きな出来事であった。数学の分野で確率論が体系化されているからといって、確率の初期値の解釈をめぐる哲学的問いが無意味になるわけではない。確率解釈は大きくふたつに分けられる。

  • 主観的確率(認識的確率)
    • 確率概念を用いる各人が心で思う期待や信念の度合い。これはさらに、純粋に個人的な確率と間個人的に共有されるような信念の二種類にわけられる。
  • 客観的確率(物理的確率)
確率的因果

原因と結果の間に、因果的必然性ではなく、確率的関係性を読み込む議論。原因は結果の生起確率を高めるという捉え方(統計的因果推論)を用いたもの。ライヘンバッハの先駆的仕事に始まり、パトリック・スッピスらによって体系化された。


必然性とは、原理からすれば「事実として必ずそうなっている」という意味ではなく、「そうなっていなければならない」という規範性の表現であり、カントの用語でいえば、「構成的」(事実を実際に構成する)ではなく「統制的」(何かを目指す)働きをする概念である。哲学的議論における必然性はそのような概念として導入されてきた。それゆえ、事実としての必然性が到底語りえないような形で因果関係が問題となる場合にも、哲学者たちは必然性と因果性とを結びつける議論を続けることができた。むろん実践上は生産的と言い難い。そうした問題意識から確率的因果が提案されるにいたった。


他方、どんなに統計的因果推論の仕組みを洗練させても真の原因は特定できない。確率的因果の議論は、因果性が形而上学的な関係性であることを逆説的に明らかにしてするものといえる。さらにはもっと表層的な次元においても、確率的因果性には困難がつきまとう。

  • 出来事Eの生起確率を低める条件に関わらず、その条件が出来事Eの原因とみなされる事例の存在
    • ゴルフの反例。バーディー達成に高い確率の位置からパットを打ったところ、突然ウサギが飛び出してきてボールをキックしたが、本来思い描いていたのとは全く異なる軌道でカップインした。この場合、ウサギによるキックはバーディー達成の確率を低くする要因であるが、まさにその条件がバーディー達成の原因となっているという反例。
  • シンプソンのパラドックス
    • 集団A、集団Bそれぞれにおいて、条件Cは出来事Eの生起確率を高めるが、ふたつの集団を合計して調べると逆転が起こり、CはEの生起確率を低めてしまうという事態が起こりうるという事例。
条件文

フランク・ラムジーに由来する一連の議論。「pならば、qである」という条件文においては、pが偽であればqの内容に関わらず全体として真になる、という性質をもつ(ex.「人間が金属であるなら、聖徳太子はサッカー好きであった。」)。彼はこうした問題に対し、「ラムジー・テスト」という考え方を提案した。

ラムジーテスト
「pならば、qである」という命題の意味は、pがqに対してどのくらいの主観的確率(信念の度合い)をあてがうことが出来るかによって計測せよ、というアイデア。のちにストルネイカーによって、「“AならばB”に対する確率は、Aという条件のもとでのBに対する条件付確率と同じである」という形で一般化される(ストルネイカーの仮説)。


ストルネイカーの仮説は条件文の理解を条件付確率によって行なうという奇想天外なアイデアで、哲学界に大きな論争を巻き起こした。しかし「この仮説を認めるならば、いかなる命題相互も確率的に独立である」という論証がデイヴィッド・ルイスによって提出された(トリビアリティ結果)。これは現実の現象から乖離した受け入れがたい事態であり、ストルネイカーの仮説が誤りであることが示された。


こうした条件文と条件付確率を組み合わせた新しい議論は、不確実性を射程に入れた論理哲学との交流であり、分析哲学の新しい地平を開いた。

歴史認識

過去認識においても不確実性が問題となり、場合によっては確率概念の適用も考慮すべきとの指摘もある。

物語論」(分析哲学における)
アーサー・ダントーが提唱。彼によれば、歴史とはふたつの時間的に隔たった出来事を指示しながら、そのうちのより早い時期の出来事だけを記述することによって認識される*1。ある過去の出来事の意味は、その後に生じる出来事によって変化させられうるものであり、歴史には過去の偶然性・不確実性が含意される。

曖昧性

曖昧な述語の特徴は、境界線事例を許容する点にある。明確に真とも偽とも言いがたい事例が存在し、しかしどこかに境界が存在するという事実が認められるもの。今日では、日常言語にあらわれる曖昧性の現象へいかに対応するかが、論理学(とりわけ意味論)における試金石であるとみなされている。

ソライティーズ・パラドックス(連鎖式のパラドックス

「気温摂氏2度は寒い」と言えるとすれば、「摂氏2.1度は寒い」ということもまた可能である(寛容の原理&前件肯定)。同様にして「摂氏2.2度は寒い」も導けるが、以下これを繰り返すことにより、境界線事例を経過して、ついには「摂氏40度は寒い」にまでも辿りついてしまう。


キット・ファインの「重評価論」と呼ばれる立場が、こうしたパラドックスへの対応としてよく知られる。曖昧な述語には境界線事例があることを認めた上で、境界線事例が発生するどこかに人為的に境界線を引き、真偽値が変化するように定める(正確化)。こうした正確化は多様な仕方で行なうことが可能であり、すべての正確化において真であるものが本当に真である(超真理)と捉えるという手法。


これに対し、ティモシー・ウィリアムソンは、ソライティーズ・パラドックスは意味論的な問題ではなく、認識論的な問題であるとする「認識説」を主張。彼によれば、いかなる曖昧な述語にも、事実として鮮明な境界があるのであり、よって意味論的な場面では曖昧性は問題を引き起こさない。


その他、「程度説」(際限のない前件肯定を拒否する)や文脈主義にもとづく解決方法などもある。また以上の議論とは別に、実在における曖昧性――富士山はどこから始まるのか――を問題にする領域「存在論的曖昧性」もある。

参考文献

*1:ダントーはこれを「物語文」と呼んだ。