現代哲学への挑戦('11) 第12回 フーコーの生命政治(講義メモ)

生命政治

フーコーは、18世紀後半に起こった出来事として、こころの扱いの変化については『狂気の歴史』を書き、からだの扱いの変化については『臨床医学の誕生』を書く。かれは、近代哲学の政治思想からは説明できない、科学知と結合したあらたな権力による生命政治的社会体制を解明しようとした。


【キーワード】人口(ポピュラシオン)・厚生権力・権力と結びついた知・監禁と排除・フーコー・ベンタム・臨床

前回のまとめ

構造主義において、人間(human)とは時代・文化・社会によって形づくられるものである、と解釈されるようになった。それまで論じられてきたような普遍的な人間像などというものは存在せず、そこで説明されるような生き方をする必要も、強制されるべきでもないとして、西洋近代的人間像に大きく変更を迫った。

生命政治(Bio-politics)とはなにか

J-F.リオタールは、ポストモダン状況を捉えて「大きな物語が消えた」と述べた。またM.フーコーは、民主主義によって成立する近代市民社会は19世紀までの一瞬の現象にすぎず、現代において民主主義は無力であると分析。ポストモダン状況においては「生命の物語」が勢力を持つようになり、それを巡る政治体制を「生命政治」とよぶ。(なお、先行する「生の哲学」との混同を避けるために「生命」と訳すと講師。一般には「生政治」として知られているよう。)

哲学的な「生」概念
人間として本質的なものを「生」として捉えようとした。生命現象そのものを実現する超越的なものを指す。
生命政治
18世紀末に生じてきた新しい医療制度、人口政策に扇動される政治のこと。人口(近代でいう個人の集まりや社会ではなく、無数のあたま数の人間身体を指す)である人々の総体の生活状態を、長期的に、集合的現象として最適化することを目指す。現代版・優生学的政治との見方も可能。


生命政治においては、人格的存在としての人間(human)ではなく、生物の一種としての「ヒト」として人間を捉える。生命政治論は医療制度や人口政策において人間性が否定されるようになっていく経緯を検討したものである。

権力構造の変遷

暴力
身体に対する物理的な力による拘束・圧力により、人々を従属させる力のこと。為政者になることで暴力を行使する権利を得る。
統治に対する理念のちがい
古代ギリシア
為政者としての徳や理性が重視された。
N.マキャヴェッリルネサンス期)
「どんな君主かより、君主がどんな手段を使って民衆の支持を得るかを重視すべきだ」
T.ホッブズ
「近代的国家は暴力を代行する機械として、民衆ひとりひとりが為政者に力を預けたものである」


「権力=暴力」として考察する伝統は、その後の近代哲学にまで引き継がれる。

「厚生権力」*1の誕生

しかし20世紀に入り、多様な権力が独立し、社会に複合的に干渉。社会のいたるところで、権力だと人々に意識されないまま監視・警告されている状況――政府が直接乗り出すのではなく、科学者や医師・ジャーナリスト・地域の首長など、局所的でミクロな権力による監視体制――を生み出した。従来のような暴力を背景とする権力の存在が自覚されにくいため、人々は対決する必要を感じず、やがて自ら支配されることを望むようになる。

ホッブスの権力像
人は元来相互に暴力で闘争するものであり、「いつ殺されるか分からない」という恐怖につきまとわれている。そこで社会契約によって、権力による統治(国家という一元化された暴力)を受け入れるべきである考えた。安全と正義を理念とする「治安維持の権力」。
フーコーの新しい権力像
目立たないやり方で人々に死の恐怖(「病気になるのではないか」「最低限度の生活が送れなくなるのではないか」)を吹き込みつつ、健康を維持し、子どもを産み育てるようにと、人々をやわらかく、しかし断固として訓育する。生命と健康を理念とする「福利厚生の権力」。

臨床医学(科学)がもたらした変化

フーコーによれば、「病気をしたら病院へ」いう発想が生まれたのが18世紀末。なお西洋においては、ホスピタル=伝統的医療を行う病院、クリニック=近代的医療を実施する病院。


それまで科学を推進していた哲学には、「世界の認識や普遍的知識を獲得する」といった動機があった。ところが、科学という新しい知の枠組みが誕生して以降、そうした理念は背景へと退き、また科学的知識がどのようなものでなければならないかは、国家統治や教育体制、産業政策などによって規定されるようになる。

かつて近代哲学が理想とした「自由で平等な諸個人による政治・経済」、「理性的主体による民主主義と自由主義」もまた真理の認識と同様、単なるスローガンへと変質した。したがって現代において、(西洋近代の文化的背景を前提とした)民主主義が機能しないのは当然のことである。

臨床医学の真の目的

目の前の個人を病気の苦悩から解放することではなく、その病気によって死ぬ病人を統計上において減らすこと。社会の諸身体の生命活動の総量を増加させることである。そこにはヒューマニズムの欠如が認められる。生活スタイルの多様性、独自性こそが本来の健康であるはずだが、厚生権力は治療に最適化・画一化された生活スタイルを強いる。「健康」が自己目的化している。自由で平等であるはずの人々を規制する権力である。


人々は「健康」という理念を媒介にして、自ら進んで隷属しようとする思考が生じている。「医学は私のこの身体には関心がない」と知りながら、厚生権力には抵抗しがたい。臨床医学は「生とは死の因果に他ならない」という新たな思想を生み出し、「人間であるとはどういうことか」という思考の枠組みが変更されつつある。

医師によって判断される善悪

社会規範のもとで上手く言動をかみ合わせることができず、周囲の人とトラブルを起こす人に対して、われわれはどのように対処すべきか?

ロック
「各自の正義に基づいて、誰が正しいかを裁判で争うべきである」
カント
「そうした人々をも巻き込めるような、普遍的道徳を考えていくべきである」
ベンサム
「違法でない限り放任されるべき。あまり気にしないように努めるべきである」


今日では「人に迷惑をかけない限り何をしてもよい」というベンサム的立場が支持され、放置される傾向にあるが、その結果として、他人に強引な関わりをする人々(クレーマーやストーカー、無差別殺人など)が増えているようにも思われる。こうした人々を「異常者」として隔離し治療することで、社会に残された人々は自らを理性的主体と感じ続けることが出来る。しかしながら、そうした理性は、狂気のトラブルに直面しないよう生命政治によってお膳立てされた舞台で演じる「自由・平等な個人」でしかないのではないか?


そこでいう「理性的」であるとは、社会から排除される非理性的態度を取らないよう考慮をした上で振舞うという態度に他ならない(理性の共犯関係)。生命政治が狂気の現象を街の中から排除した結果、自分にとっての「死」や「生」の意味に、誰も直面しない、その意味で理性的であることができないような社会になってしまったのではないか?

問題行動に関する物語り方のちがい
近代
互いに迷惑がかかるような行為を、どこまで個人の自由が優先されるべきで、道徳によって規制されてよいのか?という観点で、各人の理性によって議論。
現代
健康に害があるかどうかが論拠となり、医師が裁定できるような語り方がされる。(喫煙を例にあげれば、「煙が不快だから」ではなく「副流煙が健康を害するから」という根拠によって排除が正当化される)


どんな人々が社会の一員として適切かは、いまでも文化・社会・国・時代などによって極めて多様なものである。医学によって「正常」とされる精神など、仮説的理論に基づいた空虚な総体でしかなく、医師の活動、厚生行政にとって都合の良い精神、暗黙に根ざされた隷属させるのに理想的な人間像――そして数あるパースペクティブのうちのひとつ――に過ぎない。現代の人々は「病気か/健康か」の二元論的思考の中にあって、自由で平等な理性的主体の責任や義務、それらを支える真・善・美の価値について語ることがいかにして出来るのか?


*1:一般には「生権力」と呼ばれるもののことと思われる。